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第1話 華のない天才

 狭い雑居ビルの地下にある貸しスタジオは、空調が効いているにもかかわらず、うっすらとカビと埃、それに古い床ワックスの匂いが空気にまとわりついていた。地下特有の淀んだ空気だ。壁際に並べられた冷たいパイプ椅子の上に、若手から中堅まで、およそ10人の俳優たちが等間隔で座っている。ある者は蛍光ペンで引かれた台本を何度も黙読し、ある者は小さな音でリップロールを繰り返し、またある者は貧乏ゆすりを必死に抑えながら、それぞれが自身の番を待つ緊張感を飼い慣らそうとしていた。

 その中で、ひと際異質な空気を放つ存在がある。

 平野任三郎、31歳。

 189センチという規格外の長身は、小さなパイプ椅子に身を縮めて座っていても隣の人間との距離を不自然に詰め、ただそこにあるだけで周囲に無言の圧迫感を与えている。手入れのされていない無精髭に、目元まで伸びた無造作な前髪。その奥には彫りの深い顔立ちと、ひどく疲労したような、それでいて芯に鋭さを宿した碧眼が隠れていた。

 ヨレヨレに色褪せたミリタリージャケットに、膝の抜けた古着のジーンズという出で立ち。持ち前の骨格の良さがなければ、ただの路上生活者に見間違えられてもおかしくない。彼は台本を開くこともなく、目を閉じ、微動だにせず、ただ等間隔の呼吸だけを繰り返していた。

 ここは、中堅劇団が主催する次回公演のオーディション会場だ。


「次、平野さん。相手役は……高橋、頼む」


 長机の奥から、演出家が面倒くさそうに声を張り上げた。

 任三郎は目を開き、立ち上がる。パイプ椅子が小さくきしむ音が鳴った。

 指定された立ち位置まで数歩歩く間に、纏う空気が急速に変質していく。先ほどまでの、どこかくたびれた男の歩幅ではない。靴の裏を床にねっとりと引きずるような、重く、警戒心をむき出しにした特有の歩形。それはまさしく、逃げ場を失った人間のそれだった。

 今回のオーディション課題は現代劇のワンシーン。多額の借金を背負い、家族から見放され、逃げ場を失った男が、自宅へ取り立てにきたチンピラと対峙する場面だ。任三郎の役回りは借金を背負った男・沢木である。

 相手役を振られた高橋は20代前半の劇団員だ。前回公演では端役ながらもファンをつけたという甘いマスクの持ち主だが、今はチンピラ役のセリフが書かれた台本を片手に、少し強張った顔で任三郎の正面に立つ。


「じゃあ、自分のタイミングで始めて」


 演出家のボールペンが机を叩く音を合図に、スタジオから物音が消えた。

 任三郎はうつむいている。ミリタリージャケットの肩口が、ごくわずかに小刻みな震えを打っていた。

 そして、顔を上げる。

 正面に立った高橋は、無意識のうちに喉仏を上下させた。

 任三郎の焦点が定まっていない。目の下には色濃い隈が張り付き、極度の睡眠不足と精神的な摩耗によって限界を迎えた人間の、生気のない視線が宙をさまよい、やがて高橋の顔面にねっとりと張り付いた。

 スタジオ内の空気が急激に重みを増す。


「……金なら、ない」


 掠れた、喉の奥から無理やり絞り出すような声が響いた。

 声量はない。しかし、その短い一言にこびりついた絶望の深さと、追い詰められた末の微かな狂気が、聞く者の耳の奥に直接ねじ込まれる。ただのセリフではない。そこには、実際に数日間水も飲まずに逃げ回ったかのような、生々しい疲労と怨念がこもっていた。


「あ、いや……あるだろ。隠してんの知ってんだよ」


 高橋は台本の文字を目で追いながらセリフを返したものの、語尾がかすかに上ずっていた。柄の悪いチンピラとしての威圧感など見る影もない。目の前に立つ人間に対して、身体が勝手に警戒信号を発しているのが周囲の目にも明らかだった。

 任三郎が一歩、前へ出る。

 189センチの巨体が、蛍光灯の光を遮って高橋に影を落とす。重心の低い移動、スニーカーのゴムが床を擦る音すら殺した踏み込み。ポケットの中で握りしめられた拳の震えが、今にも暴発しそうな凶器を連想させた。


「ないって、言ってるだろ……!」


 言葉が、床を這ってスタジオの壁にぶつかった。

 怒鳴ったわけではない。低く押し殺した声音のまま、言葉の圧力だけで空間の支配権を奪い取る。高橋は思わず右足を後ろへ引き、手にした台本を胸の前に盾のように構えた。

 任三郎の目は、すでに相手を劇団員としては認識していない。憎悪と恐怖、自暴自棄がないまぜになった粘着質な視線が、ただ目の前の障害物を排除しようとする獣の光を帯びていた。


「はい、ストップ。そこまで」


 パン、と手を叩く乾いた音が、張り詰めた空気を切り裂く。

 演出家の声だ。

 任三郎はその姿勢のまま数秒静止し、やがて深く、長い息を吐き出した。肩の力が抜け、ミリタリージャケットの重みに引かれるように背中が丸まる。張り詰めていた空気が霧散し、再びもとのくたびれた顔に戻っていく。

 高橋は肩で大きく息をしており、額にはじっとりと汗が浮かんでいた。壁際のパイプ椅子に座る俳優たちは一様に口を閉ざし、手元の台本に視線を落としている。


「平野」

「はい」

「……お前、この台本読んできたよな?」


 演出家は眉間を揉みながら、手元のバインダーを乱暴に机に投げ出した。


「うちはスプラッターホラーでも撮るのか? なんだ今の間は。重すぎるんだよ」


 任三郎は唇を噛み締め、わずかに視線を下げる。沢木という人間の極限状態を身体に降ろした余韻がまだ抜けきらず、うまく言葉を返すことができない。


「……すみません」


 喉に引っかかったような短い謝罪だけが、かろうじて口から出た。


「あのさ、舞台ってのは客とのキャッチボールだろ。お前が一人でそんな自己完結した重い空気作ったら、周りの人間が全部ただの案山子に見えるんだよ。現に今、高橋の芝居、全部死んでたよな? こいつ、ただ怯えてる素人になってたぞ」


 名指しされた高橋が、弾かれたように顔を上げて、引きつった愛想笑いを浮かべた。


「お前の芝居は浮いてる。リアルすぎるんだよ。現実の借金取り立てのドキュメンタリーを見たい奴なんて、うちの客には一人もいない。もっとエンタメにしろって、前にも言ったはずだ」

「……」

「それに、はっきり言うけど、お前には華がない。デカくて、ただただ怖いだけだ。客が感情移入できる隙が1ミリもない。使いどころがないんだよ」


 投げ捨てられるような言葉が、冷たいスタジオの床に転がる。

 任三郎は黙って頭を下げた。

 リアルすぎる。浮いている。華がない。

 耳にタコができるほど聞かされてきた評価だ。自分でも痛いほど分かっている。器用に手加減をして、愛想のいい、分かりやすい芝居をすればいい。頭では理解しているつもりでも、いざ板の上に立つと、ブレーキの掛け方が分からなくなる。どうしても、その人間の抱える泥や血の匂いまで引きずり出さずにはいられない。そして、そんな泥臭いものを、金曜の夜や休日の昼下がりに劇場へやってくる客は求めていない。


「お疲れ。結果はまた事務所の方に連絡するから」


 事実上の不合格通知。


「ありがとうございました」


 任三郎は深く一礼し、リュックを肩に掛けてスタジオを後にした。


★★★★★★★★★★★


 外へ出ると、夕暮れの冷たい風が頬を打つ。

 駅へ向かう雑踏の中を歩きながら、肺の底に溜まっていた淀んだ空気をすべて吐き出した。行き交う人々は皆、足早に家路を急いだり、居酒屋のネオンに吸い込まれたりしていく。どこからか焼き鳥の匂いが漂ってきて、任三郎の胃の腑がギュッと縮み上がった。

 十中八九、これで今年に入って10回目の不採用だ。

 ジーンズのポケットから二つ折りの財布を取り出し、中身を確認する。千円札が2枚と、100円玉が数枚。銀行口座の残高は、とうの昔に2桁に落ち込んでいる。

 築40年のボロアパートはすでに家賃を2ヶ月滞納していた。今朝、ドアの隙間に挟まっていた督促状の赤い印字が脳裏をよぎる。大家の厳しい顔を思い出すだけで、空腹のはずの胃が鉛を飲んだように重くなる。

 コンビニの前に立ち止まり、ガラス窓に映る自分の姿を見つめた。

 ヨレヨレの服を着た、無精髭の大男。演出家の言う通り、こんな小汚い人間に金を払って見たいと思う客などいるはずがない。

 通行人の邪魔にならないよう壁際に寄り、画面の割れたスマートフォンを取り出す。ガラスのヒビが街灯を反射して見づらい。

 演技の仕事など選んでいる余裕はない。日雇いのアルバイトを探さなければ、明日の飯代すら事欠く状況だ。求人サイトのアプリを開く。

 工事現場の交通整理、深夜の清掃、引っ越しの手伝い。すぐに金になる仕事を無心でスクロールする親指が、ある求人のバナーの前でピタリと止まった。


『【急募】高額報酬・秘密厳守のスタジオワーク』


 目を引いたのは、画面の隅に表示されている時給の額だった。一般的な深夜労働の数倍は下らない。

 タップして詳細を開く。


『年齢・容姿不問。演技経験者優遇。都内スタジオでの収録業務です。極秘プロジェクトのため、厳格な守秘義務契約を結べる方に限ります。声質や演技の幅に自信のある方、歓迎します』


 怪しい。

 特殊詐欺の受け子か、何か法に触れる類の撮影ではないかと直感が警鐘を鳴らす。


「年齢・容姿不問」「演技経験者優遇」


 都合の良すぎる謳い文句が、画面の中で点滅しているように見えた。

 普段の任三郎なら、一瞥してページを閉じている類のものだ。だが、財布の薄さを思い出し、ため息をつく。このまま餓死するか、借金取りに追われるリアルな沢木になるかの二択が迫っている。

 任三郎は画面をスクロールし、応募ボタンを押した。


 プロフィールと簡単な経歴を入力して送信を終え、スマホをポケットにしまって歩き出そうとした時だった。

 短く振動が走り、画面にシステム通知のポップアップが浮かぶ。


『ご応募ありがとうございます。ご入力いただいた経歴が募集条件にマッチしましたので、個別面談のご案内をお送りします。明日の14時、以下の住所までお越しください』


 自動選考のシステムとはいえ、あまりにも手回しが良すぎる。

 送り主の名前欄には「ギャラクシー・ライブ プロデュース部」と記載されている。聞いたことのない社名だが、指定された住所は都内の一等地にある真新しいオフィスビルのものだった。少なくとも、雑居ビルの地下に押し込められるような怪しい会社ではないらしい。


「ギャラクシー・ライブ……」


 口の中で社名を転がし、任三郎はスマホの画面を暗くした。

 そのまま歩き出そうとして、ふと立ち止まる。よく考えたら、まともな面接用のスーツなど一着も持っていないことに思い至ったのだ。

 まあいい。容姿不問と言っているんだ、このままで行くしかない。

 改札口へ続く階段を降りながら、彼は小さく、ひもじい腹の鳴る音を聞いた。

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