第十話「スタート」
目の前に現れたタキシード姿の蒼に言葉を失う綾音。
「な、なんか。家に招かれたら演奏するならこれ着なさいって言われたんだ」
「そ、そうなんだ……意外と似合ってるじゃない」
「あんまり見ないでくれ恥ずかしい」
「女子か!」
つっこまれた。ともあれ蒼は、タキシード姿で演奏することになった。
約束だった7時を回ったのでいよいよだ。マスターがステージの照明を点灯させる。ステージに向かう蒼。すると、綾音じゃないことに常連のお客がざわめき始めた。
「おや?綾音ちゃんじゃないのか?」
「友達とかかな?」
「綾音ちゃん以外の子が演奏するの初めてじゃない?」
「言われてみればそうだね」
ピアノの椅子に座り鍵盤に手を置いた。目を瞑り呼吸を整える。カウンターの近くでマスターと綾音が見守る。
「さてさてどんな演奏になるか楽しみだな」
「お父さん。気に入ると思うよ」
「よし。いける」
ドの鍵盤を優しく鳴らした。長く響かせる。そして、滑らかに演奏が始まった。テンポは、ゆっくりめで透き通るような音色。なんだか夏を感じさせられるようで、豪華客船で旅をしているかのような感覚。時々テンポが速くなり指の速度が落ちない。正確に鍵盤を叩く。ミスがない。いつの間にか蒼の演奏に取り込まれているお客。目を瞑ってじっくり聞いている人もいれば、目に焼き付けるかのようにじーっと見る人もいる。口を開けて呆然みたいな人もいる。今この店内は、蒼に支配されているかのようだ。綾音は、演奏してくれて本当に良かったと自分の中でそう思っていた。隣を見ると腕組みをして仁王立ちしているマスター。
「お父さん。蒼の演奏どう?」
「……いいね。心に響いて来るよ。ずっとここのまま演奏が続いてほしいと、思わせるほど彼の演奏は、魔力を感じるよ。媚薬みたいだ」
「麻薬じゃないんだから」
「ははは。これは、失礼した。でも、いい演奏だ」
「うん。私もそう思う。もったいないよ。こんなに人を引き込む演奏するのに」
3分ほどが経過して蒼の演奏が終わりを告げるかのように、テンポが遅くなり別れを告げるかのように最後は、寂しいそうな音色を奏でて終えた。鍵盤から手を離して目を開ける、照明の明かりが少しまぶしい。椅子から立ち上がり、お客側に深々と一礼をする。拍手がない静まり返っている。ステージから降りてお客の間を歩いていると。
パチパチっと遅れてから拍手が巻き起こり始めた。あまりの拍手の音に蒼は、驚いた。数人のお客が蒼の元に来て感想を述べたり、握手を求められた。それが若い女性だったからかそのあと綾音の元に行くと、頬を膨らませてご機嫌斜めだった。
「ど、どうだったかな?」
「まぁ、いいんじゃなかったの」
そして、二人笑い合った。




