第十五章 世界の真実(2)
書架の片隅で壁にもたれながら、ヴェルナーは一冊の本を読んでいた。膨大な書物の中から何気なく選んだものだ。表紙には、『オルセン帝国人物名鑑 第二〇五三七巻』とだけ書かれている。
パラパラとめくると、聞いた事も無い人々の名前がびっしりと並んでいた。彼ら一人一人の詳細なプロフィールと履歴、そしていつ、どこで、どのような行動をし、最期にどんな亡くなり方をするのか。凡人才人に関わらず、全ての人間の生き様が平等に描かれている。
まるで本当に本の中の世界で生きているかのように、その人の人生が、息使いが、手に取るようにわかり、その生々しさに思わず本を閉じかけた。
ヴェルナーが目覚めてから数日が経った。ここは窓も扉も無く、外の情報が一切遮断された閉鎖空間なので、正確な時間がわからないが、ヴェルナーが何の支障も無く階段を上り下りする事が出来るほどに回復し、さらに本棚一段分の本を読み終えるくらいには時間が経過しているはずだ。
目覚めて最初の日に、ソフィアにこの書架と呼ばれる場所の事を説明されてから、ヴェルナーはこの本に近づかなかった。いや、近づかなかったのではなく近づけなかった。ソフィアの告げた『オルセン帝国』の正体は信じ難く、そしてそれ以上に気味が悪かったからだ。
ソフィアは不思議な女性だった。突然現れたヴェルナーを疎むわけでもなく、献身的に看病をしてくれた。かと思えば、突然いなくなり気がつけば書架の一角に居座って本ばかり読んでいる。ソフィアは時々この書架と、書架の隣に続いている小さな生活スペースを行き来するだけで、一日のほとんどを読書に費やしている。
食事などはどこからか調達されているようで、一日三食決まった時間にそれを食す。共に過ごすのはその時間くらいで、後は互いに干渉することなく、それぞれの読書の時間となっていた。
その間はこちらに一切の興味も示さない。いや、元々ヴェルナーに興味などないのかもしれない。それなりに長い時間を二人で過ごしているというのに、ソフィアは未だにヴェルナーに名を尋ねない。ヴェルナーの方も名乗るタイミングを逃してしまったので、それから何も言わなかった。実質二人きりなら別に支障も無い。
そんなソフィアに対し、ヴェルナーも怪我が完治するまでの間はここで大人しくしていようと決めた。だが、決心して一日もたたず、ヴェルナーはあまりの退屈さに辟易した。なにせここには本以外何もない。気が狂いそうなほど暇になった結果、最初に感じた疑義を打ち払い、不本意にもソフィアと同じ生活スタイルに染まっていった。
だが、それは正しい判断だと思った。突然この空間にやってきたヴェルナーには何もなく、この先の自分の行く末も掴めない。怪我をしている今はともかく、いつまでもこんな所にいる気はない。それを突破するには、やはりソフィアに聞かなければ進展しないのだと理解した。
そのためには材料が必要だ。ヴェルナーには情報が足りない。ソフィアを問いただすためには、まず現状を理解しなければならない。そう思って、彼女が『オルセン帝国』そのものだ、と語ったその本を調べ始めたのだった。
数日調べてわかった事は、本には大きく四種類あった。
まず、オルセン帝国の時代の流れを大まかに綴った歴史概説書。これはヴェルナーが学生時代に習った歴史学の教科書に毛を生やしたもの(といってもかなり精密で大量の毛玉になりそうなほどだが)に似ていたので比較的読みやすい。
各時代に起こった出来事の背景、経緯を詳しく述べた専門書。これには戦争、経済、政治、文化など様々なジャンルがあり、それぞれの事象をこれでもかというほど懇切丁寧に説明してある。興味のあるものに関しては、感心しながら読みふけっていたが、全く専門外の知識に関するものは、匙を投げてしまった。
地誌の本には各時代の地理の様子や、各地方の風俗、民俗的特徴などが書かれている。天災の類もここに記されてあった。
一番多いのは人物名鑑だ。おそらくこれが蔵書の半数以上を占めている。オルセン帝国成立以降その地に生まれた全ての人の人生を書き綴った大長編だ。これを全て読むのは到底不可能だろう。
これらの本を数冊見つくろって読んでみたが、その全てが『オルセン帝国』という一つの舞台を構成する要素を有していた。
そうは言っても、これらの本を読んだだけで本の世界が具現化するなどという世迷言は到底信じる気になれなかった。例えばここがヴェルナーがいた時代よりずっと未来の世界で、これらは過去のオルセン帝国を綴った書籍であると説明された方がよっぽど信憑性がある様な気がした。
だが、確かにこの書物は何かが違う。まるで意思のある生き物のように穏やかな息遣いが感じられるときがある。本が生きている、その文字の羅列の向こうに、五感で感じ取れる世界が広がっている。そして、自分もこの本の一部から生まれ出てきたものだという事を想像するとうすら寒くなった。
数冊読んでも疑心暗鬼が完全に治まったわけではないが、これで少しは彼女と対等に話し合える。ヴェルナーは本を閉じると、傍の螺旋階段を上がった。今ヴェルナーが座っていたのは最下層から数えて三階の本棚、ソフィアはさらに上の七階でほとんど音を立てずに本に没頭していた。
ソフィアはいつものように脚立の上で本を読んでいる。危ないからやめた方がいいと思うのだが、上段の本を取るのに逐一降りるのが面倒らしい。
目を本に向けたまま、こちらに一切気付かないソフィアに近づいて声をかけた。
「聞きたい事がある。」
何を、と言わずともソフィアは察したようで、本から顔を上げヴェルナーを見下ろした。
「ここの本を少し読んだ。確かにあんたの言うとおり、ここにあるのは『オルセン帝国』そのものなのかもしれない。なら、これを書いたのは一体誰だ?」
「記述者だ。」
「記述者?」
「この世界に存在する記述師の中で、唯一、記述を作成し世界を創造できる者だ。記述師についてはお前の世界にもいただろうから、多少は想像できるだろ?」
ヴェルナーが頷くと、ソフィアはこの世界における記述師の分類について説明を始めた。
「この世界に存在する記述師は大きく三種類に分類できる。一つ目が読者、これが最も多く、この世界にいる大多数を占める。記述を読むことのできる人間だ。次が消去者。その名の通り、記述の消去を行える。この消去者は世界でも数えるほどしか存在せず、他の記述師からは忌み嫌われている。そして、これら二者の能力に加えて、記述そのものを想像できる神にも等しい人間、それが記述者だ。」
ヴェルナーは、記述師にも種類がある事に驚いた。ヴェルナーの世界では、記述が見えるか見えないか、そんな違いしかないものだとばかり思っていたのに。
「これはこの世界の創世期の話になる。この世界にはかつて天子と呼ばれるお方がいた。彼は世の争いを鎮め、全ての人々に繁栄と平穏をもたらしたという。その天子様には二人の従者がいた。天子は、この世界を治めるため、その二人の従者に記述の力をもたらしたのだそうだ。」
「ええと、それは神話の類か?」
「神話ではない。事実としてあった事だ。天子から記述術を授かった従者たちは、自らを記述者と名乗り、それぞれ思い思いに世界を創造したという。それが記述世界というものだ。二人の記述者は数多くの世界を創造し、無から大地を、大地から生命を、生命から文明を創りだした。」
それはもはや神の所業だ。とヴェルナーは思った。つまりヴェルナーの知る『オルセン帝国』もその神が創り上げた創造の世界の一つにすぎないという事か。
「記述者ってのは他にもいるのか?」
その問いに、ソフィアは横に振った。
「記述者と称されるのは、最初に天子に記述術を授かったその二人だけだ。そして本来、記述師というのもその二人だけだったのだが、二人の記述者の内の一人が、自身の力を部下に分け与えたんだ。それが、読者と消去者。その力が、現代にも脈々と受け継がれ、この世界に多くの記述師が生まれたんだ。
だが、時代が下っても記述者そのものは最初の二人しか存在しない。彼らは、自らの身体を記述化し半永久化させることによって、永遠の命をも手に入れた。彼らは長きにわたって、世界を生み出し続け、それを管理している。」
「本当に神様じゃないか……。」
途方も無い話にヴェルナーは思わずその場にへたり込んだ。ソフィアはその様子を別段面白くもなさそうに眺めている。
「じゃあここは?書架とかいったが、ここも記述者とやらが創ったのか?」
「そうだ。ここは記述者の創りだした、記述世界管理用の空間だ。記述者は一つの世界を創造するのに、膨大な記述を書く。それは書物として編纂され、これだけ多くの情報量となる。」
ソフィアは天高く続く本棚を見上げた。ヴェルナーもつられて上を向く。
「記述というのは本来、記述者以外書き換える事は出来ないと明言されている。他の記述師、例えば読者は記述者の書いた記述を読む事しか出来ず、消去者は記述者の書いた記述を消す事しか出来ない。」
「新しく創るのは記述者にしか出来ない、ってことか。」
そういえば以前パヴコヴィックがそんな事を言っていた気がする。「記述」を使う事は出来てもそれを書き換えたり、生み出す事は誰にも出来ないのだと。
「ここにある本はただの紙とインクだ。だが、ただの紙とインクでも、『記述を書く』という行為自体に何か特別なからくりがあるらしい。例えば、今ここで私がこの本に加筆をしても、『オルセン帝国』の世界には何一つ変化は現れない。それが出来るのは、この世界を創った記述者だけなのだ。
それでも所詮は紙とインク。記述の内容を加筆修正する事が出来なくても、本自体を破壊されてしまえば記述は破損してしまう。そうすれば記述世界にも多大な影響が及ぶ。大抵の場合、それを書いた記述者自身が直せばいいが、何度も同じような事をされる度にいちいちそんな事をしていては埒が明かないだろう?だから、世界とは隔離して、記述者自身しか開けられない書架に記述書を保管しているんだ。」
だから、ここには窓も無く外に通ずる扉も無いというわけか。まるで時が停滞したかのような空間は、事実記述の劣化を防ぐ何らかの作用があるのかもしれない。
となると、ここでまた一つ疑問が浮かぶ。
「ならあんたは何者だ?あんたは自分を司書と言ったな?記述者はそんな大事な書架を特定の誰かに管理させてるのか?」
「それは……、お前には関係の無い事だ。」
ソフィアはやんわりと回答を拒絶した。ヴェルナーは納得が出来ず、ソフィアを睨みつける。
「なんでも教えてくれるんじゃなかったのかよ。」
「なんでもとは言ってない。お前がこの状況を理解するのに必要な事は教えるが、私個人の事まで喋る気は無い。」
ソフィアの存在はヴェルナーにとって知らずとも良いという事なのだろうか。あるいは、何か事情があって話せない、もしくは話したくないというところだろうか。いずれにせよ、ソフィアはこの件に対してこれ以上口を開くつもりは無いらしい。諦めてヴェルナーは質問を変えた。
「俺がここに来た原因はわかるか?」
ヴェルナーは一冊の本の中から飛び出してきたのだと、彼女は言った。何らかの理由で、ヴェルナーだけが記述世界を飛び越えこの世界に具現化した。それは一体なぜなのか。
「それは、私にもわからない。なにせこんな事は初めてなのだ。突然ひどい地響きがしたかと思うと、お前が本に埋もれて倒れていた。お前の方には心当たりは無いのか?」
「心当たり、というか刺されて死にかけたところまでは覚えてるんだがそれ以上の事は。」
そもそもあの時メテルリオンで何が起こったのか、ヴェルナー自身も把握できていない。だが、もしあのメテルリオンでの出来事がきっかけでこの世界に迷い込んでしまったのだとしたら、その時の状況を調べれば手がかりはあるかもしれない。それを提案してみると、ソフィアも賛同した。
「手がかりならここに山の様にある。まず、お前がここに来る直前の出来事を正確に把握できれば、その原因も分かるだろう。」
「わかった。ここの本を自由に使わせてもらっていいか?」
「構わんが乱暴には扱うなよ。ここの書物は替えが効かない。」
あまり乗り気ではないようだが、ソフィアは本の閲覧を正式に許可してくれた。加えて、ヴェルナーはもう一つ質問を投げかける。
「もう一ついいか?……俺は元の世界に戻れると思うか?」
「……さあ、それは原因が分かれば分かる事じゃないか?」
素っ気ない返事をすると、ソフィアは再び手元の本に思考をうずめ、それっきりこちらを見なかった。




