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第十五章 世界の真実(1)

本章から第二部に入ります。

 記述暦一七八四年雨月。その冬、オルセン帝国首都トランベルは息も凍りそうなほどの記録的寒波にみまわれた。冷え切った都の片隅、民の中でも最下層に位置する浮浪者のたまり場の中に、少女は蹲っていた。冷たい風の吹きすさぶ小汚い通りで、小さな薪に火をくべ懸命に身体を温めていた。

 その顔はひどく青白い。だが、少女の表情は絶望に彩られてはいなかった。それどころか、幸せそうな満ち足りた笑顔を作っていた。

 少女の視線が胸元に落ちる。少女の腕の中には、襤褸の布にくるまれた小さな赤ん坊の姿があった。少女はその赤ん坊に笑いかけ、愛おしそうに頬を撫でる。


「マリー、ミルク分けてもらったよ。」


 少女―――マリーの元に小さな缶を手に持った少女が近づいて来た。マリーと同じくこの寒空の中、薄手の衣服しか着ておらず、唇は真っ青になっていたが、マリーほど顔色は悪くなかった。


「ありがと、ヘレナ。お乳出なくって。」

「あんたは自分の身体の事心配しな。ほら、温かいうちに飲ませてあげて。」


 ヘレナと呼ばれた少女は、マリーの腕の中に眠る赤ん坊に慎重にミルクを飲ませた。空腹で泣く事すらやめた赤子は、俄かに目覚め一生懸命ミルクを飲む。


「ふふ、可愛い。」

「そうだね、でも……。」


 愛おしさに笑顔を作るマリーに対し、ヘレナは複雑な顔をした。その理由をマリーはもう嫌というほど知っている。


「見ず知らずの客の子供産むなんて、あんたの身体がどうなるかわかってたでしょう?」

「ヘレナ、もうその説教は聞き飽きたわよ。」


 マリーは口を尖らせて、ツンとそっぽを向いた。だがマリーもわかっている。身体を売ってなけなしの硬貨をもらい、明日の食べ物にすら困り果てるようなマリーが、子を産み育てるなど途方も無い話だと。今、こうして我が子を腕に抱いているのも奇跡に近い。ヘレナや他の仲間数人に手を貸してもらって無事出産を終えたが、一歩間違えばこの子か自分、あるいは両方の命を落とすかもしれなかった。

 それでも、マリーは産みたかった。自分が初めて家族だと思える存在が欲しかった。父親がわからずとも、自分の子であるとはっきり言える子が、マリーには出来た。それが何より嬉しいと同時に、大きな罪悪感もぬぐえない。


「ヘレナ、お願いがあるの。」

「……何?」

「私はきっとこの冬を越せない。この体では仕事もできないし、もうあまり力が入らないの。だからね……。」


 マリーは腕の中でお腹いっぱいのミルクに満足し、すやすやと寝息を立てている赤ん坊を見つめた。


「私が死んだら、この子をどこかちゃんと養える家族の元にやれるようかけ合ってほしい。」

「あんた……、何を言って―――」

「本当はすぐにでもそうするべきだと思う。でもせめて、私が生きている間だけは、私の手でこの子を育てたい。」


 マリーは確信していた。この子はきっとこの先辛い思いをする。何も持たない母の元に生まれたせいで、自分と同じひもじい思いをするに違いない。罪悪感がさらに募る。それでも、この子を産んだ事に後悔は無い。


「お願い、ヘレナ。私の最期のお願い。」

「……馬鹿。」


 親友の瞳に涙が浮かんでいた。それを見てマリーは微笑んだが、視界は反比例して歪んでいく。


「……ロイ。私の可愛い子。いつかあなたに幸福が訪れますように。」


 その時にマリーはもうこの子の傍にはいないだろう。だからマリーは祈った。


 神様、もしいるのなら、どうかこの子を御救い下さい。

 この子が幸せになれるよう導いて下さい。


 ◆

 じっと誰かに覗きこまれている気がする。飢えた獣が飛び回る野生動物を捕らえる時のように、二対の瞳が食い入るようにこちらを覗きこんでいる。

 晒し物にされている感覚が気持ち悪くて、思わず身をよじった。その瞬間、全身に激痛が走る。


「―――っ!!」


 声にならない悲鳴を上げて、ヴェルナーは目を開けた。



 そこは見知らぬ部屋だった。それほど広くない部屋に机と箪笥、それから今ヴェルナーが横になっているベッドと脇に備え付けられているチェスト。必要最低限の家具が置かれたこじんまりした部屋を見て、真っ先に軍学校時代の寮室を思い出した。


 ―――ここはどこだ?


 目を瞬かせて念入りに観察するも、全く持って検討がつかない。もう少し辺りを見回そうと首をひねったところで、目の前に真ん丸い二つのエメラルド色の瞳が飛び込んできた。

 あまりに至近距離だったために、ヴェルナーは声を裏返した。そして一拍遅れて、そこに幼い少女の顔を認識する。


「……えっと、お前誰?」


 大きな瞳を瞬きもせずこちらに向けてくる少女。全く反応が無いので人形かと思ったが、背後で扉が開く音が聴こえると、一目散に離れて行ってしまった。


「目が覚めたか?」


 少しかすれた、それでいてハイトーンの独特の声が扉の方から聴こえて来た。少女が消えた向こうから、髪の長い女性が現れる。


「……あんたは?」

「ここの司書だ。……着替えられるか?」


 女性はヴェルナーの足元に畳んだ白いカッターシャツと黒いジャケットを置いた。よく見ると、ヴェルナーは上半身裸で、服の代わりにミイラよろしく包帯がぐるぐる巻きに巻かれている。身体を起こそうとすると背中に割れる様な痛みが響いて思わず呻いた。女性は無言でヴェルナーの肩を支え、身体を起こす手助けをする。


「背中から胸部にかけて刺突傷がある。起き上がるのがつらいか?」

「いや……、大丈夫。」


 口では虚勢を張るものの、本音は叫びたいほど辛かったので、支えてくれるのは大変ありがたかった。ヴェルナーはシャツだけ羽織ると改めて女性に向き直る。


「あんたが助けてくれたのか?」

「助けたというより、お前が突然現れたので看病せざるを得なかったというか……、ここは私の住処だからな。」


 意識を失う直前までの事を少しずつ思い返しながら、ヴェルナーは首をひねった。認識が間違っていなければ、自分はメテルリオンでレインと対峙し、おそらくレインによって刺されたはず。


「あの……ここどこだ?メテルリオンはどうなったんだ?」

「メテルリオン?……ああ、『オルセン帝国』に登場する街か。どうなったかといわれても……、いつの話をしているのかわからんのでは説明できん。」

「……登場?いつの話って?メテルリオンを知ってるんだよな?」

「知って……いるな。読んだから……。」

「読んだ?」


 ヴェルナーは首を傾げた。

 彼女はメテルリオンを知っているようだが、発言が曖昧で理解が出来ず、どうにも話がかみ合わない。そもそもヴェルナーがメテルリオンで負傷してここまで運ばれてきたのなら、この女性はメテルリオンの状況も知っているのではないのか。戦場となり多くの兵士が傷ついたあの惨状を。

 突然現れたという表現もおかしい。あの戦場からヴェルナーの身体がこの部屋に瞬間移動したとでもいうのだろうか。


 女性の方も話が符合しない事に首をかしげる。そして不思議な事を口走った。


「逆に私から聞くが、お前はいつの時代からやってきたんだ?」

「いつって……現代以外に何があるって言うんだ。」

「そうじゃない……、ああ、記述暦で言うと何年だ?」

「記述暦?……一八〇八年だけど。」


 そこまで聞いて女性は合点がいったように頷いた。


「それなら第三次イシル独立戦争の頃だな。一八〇八年霜月にイシル軍がオルセン帝国内ヘ侵攻する。十五年ぶりとなるオルセンとイシルの前面衝突だ。」

「何だ、やっぱり知ってんじゃねえか。」


 自分も承知の事実を述べられ、ヴェルナーは胸をなでおろす。だが、何故か女性は止まることなく続きを述べた。


「戦争はおよそ一カ月足らずで停戦したが、その二年後、一八一〇年にイシル及びオルセン東部の一部の都市で、皇帝に対する武装蜂起が起こる。それがきっかけとなり、各地で内乱や暴動が勃発し、オルセン皇帝デモルト三世は暗殺される。ガフラス連合王国が調停に回った結果、オルセン帝国は事実上消滅し、メテルリオンは―――」

「―――!?待った待った!何の話をしてるんだ!」


 聞いた事も無いような話を平然と話され、ヴェルナーは慌てて女性を制止する。急に声を張り上げたからなのか、女性はきょとんとした。


「なんだ、メテルリオンの事を聞きたかったんじゃなかったのか?」

「そうだけど!なんだよ二年後って、武装蜂起とか暗殺とか。……まさか、俺が寝てる間に二年が経ってたとか―――!?」


 あり得る。ヴェルナーは一瞬死んだかと思うくらいの深い傷を負った。その衝撃で何年も目覚めなかった、と言われてもおかしくない。だが、目の前の女性は何を言っているのか、と呆れた顔をした。


「は?お前がここにきて目を覚ますまで、まだ一日くらいしか経ってないぞ」

「一日?じゃあ、まだ今は記述暦一八〇八年じゃないか。お前なんで二年後の事なんか知ってるんだよ?」


 理解が出来ないと吐き捨てると、ようやく察した女性は難しい顔でこめかみをほぐす様な動作をした。


「そうか……、私の見立てが間違いなければ、お前は記述世界から来たんだよな。という事は一から説明してやる必要があるのか……。」

「記述世界……?何の事だ?」


 聞き慣れない単語にヴェルナーはますます不安になった。

 嫌な予感がするというよりも、落ち着かない。何かとんでもない事を聞かされる様な、そんな予兆を感じてならない。


「では、話を変えよう。ここがどこかという質問から答えようか。少し動けるか?」


 女性は近くに立てかけてあった、松葉杖の様な簡素な木の棒を放って寄越し、自身は先ほど現れた扉の方へと向かった。ヴェルナーも杖をついて悲鳴を上げる身体を駆使し、彼女の後についていく。


 女性が扉を開けた。その先に広がっていたのは、外周を一面本棚で埋め尽くされた巨大な筒状の部屋だった。見上げると天井は気の遠くなりそうなほど高く、その果てが見えなかったが、天高く続く壁は一面本という本で埋め尽くされている。ここに一体どれほどの本が所蔵されているというのか、何千何万、下手をすれば億にも届くかもしれない。

 ヴェルナーが呆気にとられている隙に、女性は本棚に近づき、そこから一冊の本を抜き取ってこちらに見せた。


「ここにあるのは全て『オルセン帝国』の記述だ。」

「オルセン帝国の記述?」

「そうだ。オルセン帝国の成立、すなわち初代皇帝ヴァルハルムス一世の生誕から、オルセン帝国滅亡までの歴史、事象、事件、政治経済、地理天災、人物、文化、民俗等についてが事細かに記されている。それは帝国創世時代の歴史概説だ。」


 手渡された本の表紙には、色あせて薄くなっていたが確かに『オルセン帝国歴史概説 第一巻[九八〇~一〇〇六]~初代皇帝の誕生』という表題が書かれていた。ページをめくって中を流し読みすると、確かに軍学校時代の歴史学講義で習ったヴァルハルムス一世の生涯が事細かに書かれている。ヴェルナーは今一度はるか天空まで続く本の山を見上げた。


「つまり、これ全部オルセン帝国の歴史書ってことか?」


 その問いに女性は首を静かに振った。


「歴史書ではない。これらはお前のいた『オルセン帝国』そのものだ。」


 思わぬ答えに頭がついていけず、黙ったまま女性を凝視する。女性は構わず話を続けた。


「お前のいた『オルセン帝国』は、かつてある記述者(テクスター)が描いた記述世界の一つ。記述世界とは、記述という文字の羅列を核本(コアテキスト)の力を用いて、質量と感度を兼ね備え具現化させた世界の事。つまりお前を含めた『オルセン帝国』とは、本来ここにある書物に書かれた文字の羅列に過ぎず、私にとってお前はそれらが具現化し人間の体を成した幻に過ぎない。」


 ヴェルナーは持っていた本を取り落とした。この女が何を言っているのかわからない、いや理解しようにも脳が拒絶反応を起こしている様な、そんな感覚だった。


「つまり……、もうちょっと簡潔に言ってくれ。」


 震えた声で要求すると、女性は少し考えて直球で答えた。


「つまり、お前がいた『オルセン帝国』はここにある本の中の幻の世界で、お前もその幻の中の住人にすぎない架空の登場人物、という事だな。」


 女性が言い終わると同時に、ヴェルナーは全身の痛みなど忘れて女性の胸倉を思い切り掴んだ。至近距離で女性を睨みつける。


「俺を馬鹿にしてんのか……!」

「馬鹿にしてなどいない。事実だ。」


 ヴェルナーはさらに腕に力を込めるが、女性は全く動じない。相変わらずの冷ややかな目でヴェルナーの怒りを受け止めている。


「ふざけるな!そんな事信じられ―――っ!」


 大声を出したせいで、傷口が開いたらしい。胸の痛みに蹲ると、白い包帯にジワリと赤い血が滲むのが見えた。


「まだ完治してないんだ。大人しくしていろ。」

「……っ!」


 抗議しようにも声が出せないので、代わりに女性を思い切り睨み上げた。よほど冷静なのか、女性は飄々とした顔でヴェルナーを見下ろしている。


「まあ、今理解できずとも追々わかってくるさ。さて、最初の質問の答えに戻ろうか。」


 女性は部屋の中央に取り付けられていた書机にもたれかかると、にやりと口角を歪めた。


「ここは書架(ライブラ)。『オルセン帝国』の全ての記述を保管し管理する場所。私はここの司書、名をソフィア=ワーグマン。お前は突然その怪我を負った状態で、この本から飛び出て来た。」


 女性―――ソフィアは、ヴェルナーに渡したものとは別の書物を掲げ、その表紙をヴェルナーに見せた。

『オルセン帝国歴史概説 第九七二巻[一八〇八~一八一〇]~第三次イシル独立戦争とオルセン帝国の滅亡~』

 見慣れた年号とイシル独立の文字、滅亡という言葉。それらが先ほど見た創世期の歴史概説と同じシリーズと思しき本の表紙に踊っていた。


「……さて、質問を受け付けよう。何が知りたい?記述世界の青年よ。」

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