第十四章 終わりは始まりにすぎず(3)
全身が焼けつくように熱い。痛みで身体が引きちぎられそうだった。
ゆっくりと瞼を起こす。視界に見えるのは黒く染まった空と大地。この世のものとは思えないおぞましい世界。
―――俺は、どうなったんだ?
未だ冴えきらない頭で考える。ふと、腕の中に温かなものがあるのを感じた。目線を下ろすと、そこには小柄な女が抱きかかえられている。女は頭から血を流し、深く目を閉じていた。その瞬間意識が覚醒する。
「―――!アイリ!」
女、アイリはぐったりとしたままヴェルナーの胸に顔をうずめていた。一瞬ひやりとしてアイリの顔を覗きこむ。こめかみのあたりに瓦礫の当たった傷があったが、幸いにもひどくは無かった。わずかに呼吸と脈動も感じる。どうやら気絶しているだけの様だった。
その事に安堵すると、改めて周囲を見回す。
先ほど落馬した位置からはそれほど離れていないとみた。時間もそれほどたっていないはずだ。
馬はあのまま何処かへと走り去ってしまったらしい。辺りには生きた者の気配が無く、ただすぐ近くで轟々と竜巻が唸っていた。
遠くで砲音が鳴る。まだ砲撃は止まっていない。ここにじっとしているのは危険だ。とりあえずアイリを瓦礫の影の安全な場所に移すため起き上がった。アイリを抱きかかえると傷だらけの身体に鞭を打って、ゆっくりと歩を進めた。
アイリを瓦礫にもたれさせ、持っていた布切れで簡単に血止めを行うと、ヴェルナーも糸が切れたように隣に腰を下ろした。途端に全身に疲労が襲う。このまま倒れ込んで眠りたくなってしまう。
「……駄目だ。」
いい聞かせようとしても、身体は動いてくれない。ヴェルナーは無意識に腰のホルスターに手を当てる。両腿に付けていたホルスターはどちらも空だった。落馬した際にどこかで落としたのだろう。だが、探す気も失せた。嫌な予感がして、肩に担いでいたライフルも確認する。落馬の衝撃で銃身が折れ曲がり使い物にならなくなっていた。
ヴェルナーはため息をついて空を仰ぐ。ふいにアイリの身体がこちらに傾いた。意識が戻ったのかと思ったが、相変わらず青い顔で眠り続けていた。
肩と肩が触れ合う。その温かさは、まだ彼女が生きている事を雄弁に伝えていた。
さっきまでの事が嘘の様な平穏だった。自分たちが今、どこにいるのかさえ忘れてしまいそうな気がした。そう思うほどに、ヴェルナーの精神はやられていたのかもしれない。
このままここで朽ち果てるのだろうか、生きながらにして死んでいる兵と同じように狂ったまま逝くのだろうか。放心状態のまま、そんな弱気な事まで考えていた時、すぐ傍で砂利を踏む音がした。
「……敵だ。……敵。」
前を見ると虚ろな声で呟く兵がこちらに銃口を向けていた。兵は目を血走らせ、呼吸も荒く涎を垂らしている。おぼつかない足取りでゆっくりとこちらに近づいて来た。
「敵……二名、発見。直ちに……排除……。」
二名という言葉に、ヴェルナーは我に返り、とっさにアイリを庇った。駄目だ、ここから生きて帰らなければいけない。せめてアイリだけは無事にカテラの元に返さなければ。彼女はヴェルナーの我がままでここまで来たのだ。彼女だけは何があっても守らなくてはならないのだと本能が告げていた。
兵は正気を失っているからなのか、一向に撃つ気配も無くじりじりと間を詰めてくる。だが、こちらにはもうまともな武器が無い。そう思った時、気絶したアイリの腰に吊ってある二本のサーベルが目に入った。
ヴェルナーはそれを一本引き抜くと兵に向かって構えの姿勢を取る。サーベルが見えているのか見えていないのか、相変わらず緩慢な動作でヴェルナーに近づいて来る。その時だった。
突如沈黙を保っていた嵐の目の方から、目にもとまらぬ速さの突風が襲いかかってきた。
「ぎゃああ!!!」
兵の断末魔が聴こえた。突風はまるで縦横無尽に動く刃の如く、兵に襲いかかりその身体をズタズタに引き裂いた。
一瞬の事で何が何だかわからないまま、ヴェルナーはゆっくりと嵐の目の方を見る。そこに佇んでいたのは、
「……レイン。」
少女は相変わらず感情の無いガラスの瞳で、葬った兵士を見下ろしていた。そしてその目をそのままこちらに向ける。
「ヴェルナー=ライトロウ。」
先刻、街の入り口で出会った時と同じように、少女はヴェルナーの名を呼んだ。抑揚の無い声音が、ますます恐怖を増長させる。
「レイン、目を覚ませ。」
「レ、イ、ン……?」
少女は小首をかしげる動作をして、初めて聞く言葉の様に自分の名を繰り返す。
「レイン頼む。もうこんな事は―――」
「私の使命は、オルセン兵を殺す事。」
ふわりと少女の豊かな髪が舞い上がった。空気が膨張し、熱を帯びる。やばいと直感が叫ぶ。
「それから、……ヴェルナー=ライトロウを殺す事。」
膨れ上がった空気が破裂し、レインの背からおびただしい程の白い帯状の何かが飛び出した。ヴェルナーは驚きと恐怖で言葉を失くす。だが、反応する間も与えられず、その帯が一斉にヴェルナーに襲いかかった。
帯はまるで生き物の様に、身を引きかけたヴェルナーの左腕に絡みつくと、信じられない強さでヴェルナーを引き寄せた。足裏に全体重を込めてその場に踏ん張ったが、直後にゴキリという嫌な音がして、左肩に激痛が走った。肩が脱臼したという事まではわかったが、その後は痛みで思考が吹っ飛び、そのまま成す術無くレインの元へ引き寄せられる。
「……!おい…、離せ!」
痛みに脂汗を滲ませながら、必死に叫んだ。だが、目の前にいる少女の耳には全く届いていない。
「殺さなくては……ダメ。だから、ヴェルナー=ライトロウを……殺す。」
再び、レインの周りに風が集束し始めた。兵士を切り刻んだ、あの風の刃だ。拘束し動けなくなったヴェルナーを餌食にせんと、徐々に形を成していく。
このままでは、本当に八つ裂きになる。自分だけならまだいい。もし、その余波が後ろにいるアイリに当たってしまえば―――。最悪の想像に、ヴェルナーの中から僅かな余裕さえも吹っ飛んだ。とっさにヴェルナーはレインに叫ぶ。
「バズが悲しむぞ!」
「え?」
その時、レインの目が一瞬人間であった頃の明かりを灯した。自分の名にすら反応を見せなかった少女は、バズの名を聞いて手を止めた。
「バズはお前を待ってる!お前を助けたいって、俺に頼んだんだ!」
「バ、ズ……。」
「あいつはお前を誰より想ってる!頼む、バズのためを想うなら元のレインに戻ってくれ!」
「バズ……私は……。」
形を成しかけていた空気が霧散した。その一瞬の隙をついて、右手にかろうじて握っていたサーベルで、左腕に絡みついていた帯を切り落とした。
「がああああ!!!」
およそ人のものとは思えない絶叫がレインの喉から発せられた。どうやらこの白帯はレインと痛覚を共鳴しているらしい。身を切られた腹いせか、棍の形状となった帯の束が、自由になったヴェルナーを容赦なく殴打する。
その衝撃でヴェルナーは勢いよく後方に吹っ飛んだ。瓦礫にぶつかり背中を打ちつけてせき込む。サーベルを杖代わりにゆっくりとたちあがる。レインはまだ、痛みに喘ぐように暴れていた。その幼さを遺した顔が一時だけ、元の明るい少女に戻った。そして、
バズに、あいたい
声は聞き取れなかった。だが、少女は確かにそう言って、泣いた。
その時にはもう、ヴェルナーの覚悟は決まっていたのだろう。たとえ自分がどうなろうとも、少女をバズの元へ連れて行くと。
「―――会わせてやるさ。」
自分でも不思議な事に、ヴェルナーは笑っていた。もう感情の無い人形の顔に戻ったレインに、それでも涙を流し続けるレインに、―――微笑みかけた。
「……絶対に……助けてやるからな……!」
ヴェルナーは鋭い咆哮と共に駆けだした。動かない左腕を庇いながら、迫りくる帯の大軍をサーベルでなぎ払う。少女に近づいていく。
だが、あと一歩という所で、サーベルに絡みついた帯が容赦なくヴェルナーの手からそれをもぎ取った。同時に足をすくいとられる。それを皮切りに、帯の群衆がヴェルナーの全身を絡め取った。
足が地面を離れる感覚が、妙におぞましかった。パニックになりながらも、動かせない左腕以外を使って、必死に帯を振りほどこうとする。だが、もがけばもがくほど、帯は頑丈に絡みつき、ヴェルナーの自由を奪っていった。
「くそっ!あいつが待ってるんだ!お前を助けたいって……!離せ……、離せ!!」
もがき続けそれでも、目の前の少女に手を伸ばす。後数センチ、少女に触れようとしたその時、背中が焼けるように熱くなった。
「―――あ?」
言葉を発しようとした瞬間、口から出たのは声ではなく血の塊だった。視界の端に見えたのは、自分の身体の中心を貫通する銀の刃。自分が先ほどまで手にしていたあのサーベルが、心臓に深々と突き刺さっていた。
レインは動いていない。レインはただ、涙を流しながら感情を成さない瞳にその顛末を映しこんでいた。
視界がぼやける。レインの顔が遠ざかる。誰かの絶叫が聴こえた気がしたが、雷の様な音がしてかき消されてしまった。視界は白く、光に包まれる。
ヴェルナーが覚えているのはここまでだった。
◆
またいつもの夢かと思っていた。頭がガンガンして、身体も思う様に動かなくて、意識はある様で浮遊していた。辺りは暗く、煙と埃の匂いが充満して、呼吸も苦しかった。夢とは思えないほど実感があって、生々しい。でももう何度も感じたものだ、慣れている。
だが、今日の夢は少し違った。いつもは無いはずのものが、ここにある。隣に触れる温かな気配。自分と一緒にいてくれる優しい温度。その心地よさに全てを忘れて甘えたくなった。たとえここが地獄の底でも、ずっとこのままでいいとさえ、思ってしまった。
その気配が離れた時、そんな妄想は幻のように霧散した。そして、脳内で残酷な言葉が響く。
『これは、夢ではない。現実だ。』
その言葉の通り、アイリの意識と感覚はこれまでの夢とは比べ物にならない程リアルに蘇った。そして―――夢と現実が重なった。
「―――会わせてやるさ。」
とびきり優しい声がした、なぜだがひどく泣きたくなるほどの。
アイリは完全に覚醒した。そして、今見ている光景が夢ではなく現実のものだと確信する。アイリは知っている。ここからの事を、何が起こるかを―――
「……めて。」
声にしようとしても、声にならない。見たくないのに、目の前で広がる光景から目が反らせなかった。
「やめて……!」
いやだ。見たくない。現実のものにしたくない。この先に待つものを、
ヴェルナーの死を―――
鈍い音と共に、ヴェルナーの背にアイリのサーベルが深々と突き刺さった。その瞬間、アイリの中で何かが決壊した。
「いやああああ!!!!」
絶叫がほとばしると同時に、アイリの胸元に掛けられたロケットペンダントが開いた。そこから目も眩むほどの光が飛び出し、目の前にいたヴェルナーを包み込んで消えていった。
記述暦一八〇八年晩秋。オルセン帝国とイシル帝国の国境、聖地メテルリオンで起こった壮絶な戦いは、オルセン、イシル両国合わせ、一万人近くの犠牲者を出して終息した。遠くからあの戦いを見ていた者の証言では、戦いの間、まるで街が暗雲にすっぽりと包まれたかのように薄暗かったという。戦いが終わった瞬間それは霧散し、後には屍も同然の憔悴しきった兵たちが点在していた。
死体は銃殺も多かったが、鋭利な刃物で全身を切り刻まれた無残なものもあった。
生存者の多くは精神に異常をきたしていた。突然怯えるように悲鳴を上げたり、見えぬものに向かって叫んだり、そう言った者は精神病院に送られ二度と帰ってくる事はなかったという。
この戦場で何が起こったのか、それを雄弁に語れる当事者はいない。
ただ二つ、この事態を引き起こした原因はいずこかへと消え去ったという事と、この戦いを境に消息を絶った若い将校が一人いた事だけが、密かに人々の間で噂となり囁かれていた。
第十四章完。
そして第一部完結です。
とりあえず言いたい事はたくさんありますが、それは次の幕間にて。
終わりは始まりにすぎず、ここからが本当の地獄だ。(作者的な意味で)




