第十章 フーベルト=シュネイの手記(6)
開け放たれたシュネイ家の庭園は、秋風に乗った枯れ葉の匂いが濃く充満していた。その匂いに鼻がツンとする。今夜は新月、暗闇溶け込んだその庭の端で、今にも闇にのまれそうな鮮やかな銀色を見つけた。
―――シュッ、ヒュン
見えない何かに向かって一心に剣を振り続けるヴェルナー、暗闇で表情は読み取れなかったが、その姿はひどく脆く危なげに見えた。
アイリは確信する。ここ数日、アイリがヴェルナーに抱いていた不信は、決して気のせいなどでは無かったのだと。こちらが泣きそうになるほど、彼は不安定になっていた。
どうして気付かなかったのだろう?彼はこんなにも全身で悲鳴を上げていたのに。
音が止まった。暗闇でヴェルナーがこちらを振り向く気配がする。
「……何か用か?」
暗い声でそれだけ言った。向こうはこの暗闇でもアイリを識別出来ているらしい。しかし、ヴェルナーの纏う気配が、何故か獰猛な獣のように荒々しくなった。
「別に、何も。あんたこそ何してるの、こんな暗い所で剣なんか振っちゃって。」
「お前には関係ない。」
ヴェルナーは冷たく一蹴した。ここしばらく彼が取り繕っていた、『何事も無い』というメッキがはがれ、すっかり素の状態に戻っている。苛立っている様な、焦っている様な、それでいて悲しんでいる様な、そんな状態に。
そのままアイリの脇を通り過ぎようとするヴェルナーの腕を掴んだ。
「待ちなさい!どうしちゃったのよ、最近おかしいわよ。」
「うるさいな、離せ。」
「―――!?」
ヴェルナーが力任せに振りほどこうとしたため、アイリは思わず手を振り上げた。勢い余って思い切りヴェルナーの頬をひっぱたいてしまう。パンッという乾いた音共に、何かがぷつりと切れる音が聞こえた気がした。暗闇で見えないのが幸いだった。おそらく今、アイリの目の前には般若の如き形相が浮かんでいるに違いない。
今度は逆にアイリの方が手首を思い切り掴まれた。痛みでうめき声をあげると、眼前にヴェルナーの顔が迫る。
「……なんで俺に構うんだ。」
物恐ろしい眼光とは裏腹に、ヴェルナーの言葉はなぜか痛々しかった。
「お前は俺の事恨んでたんじゃないのかよ、俺が憎くて仕方なかったんじゃないのかよ?」
「その件は…もう和解したじゃない。それに今はそんなこと関係ないでしょ?」
どうして今更蒸し返すのかと、アイリは戸惑う。この数週間ヴェルナーと共に過ごして、名誉主席の事はすでにアイリの中で踏ん切りがついている。ヴェルナーだってそうだと思っていたのに。
アイリは引く事もせず、顔を上げてまっすぐヴェルナーの顔を見た。月明かりのない暗闇でも、これほど近ければその表情は手に取るようにわかった。
彼は、笑っていた。―――だがそれ以上に、泣きそうな顔をしていた。
「もし、俺のしてきたことが全て無駄な事だったって知っても、お前は同じように俺を許すのか?」
「…どういうこと?」
言葉の意味が理解できず、アイリは聞き返す。いつの間にか掴まれていた腕は緩められ、自由を取り戻していたアイリだったが、目の前で悲しそうに俯くヴェルナーから目が逸らせなかった。
「……シュトラウツァの団長が言ってたんだ。サイフォス=ライトロウという軍人は、どこにもいない、幻なんだって。」
「えっ…?」
それは思ってもみなかった答えだった。どうしてシュトラウツァの団長とサイフォスが関係しているのかは、この際置いておくとして、どこにもいないとはどういう事か。
「何言っているの。サイフォスはあんたがずっと探してきた人でしょ?幻だなんて―――」
「俺が軍学校時代世話になったハルトマン少将が、俺に内緒でサイフォスの事を調べていてくれたらしい。サイフォス=ライトロウなんて名前の軍人はいなかった。俺が追っていたのは幻だった。いや、たとえサイフォスが実在していたとしても、俺があの人に抱いていたものは偽りだった。…俺は今の今までありもしない理想を追いかけてたんだ。」
「っ…、そんなこと―――」
「そんなことないって言い切れるのか!」
その激昂は泣いているようにも聞こえた。
「おかしいと思ってたんだ!もう何年も軍にいるのに、あの人の名も話も一度たりとも耳にしたことが無かった!この旅で俺はその手がかりを掴めると思った。でもそんなのは詭弁だった…。俺は、本当は心のどこかで気づいてたのかもしれない。あの人を探してはいけないって。」
ヴェルナーは吐露する。
「研究所でランドルフと遭った時、お前言ってただろ?どんな事でも向き合うべきだって。俺もそう思った。たとえサイフォスが大罪人だろうと、もう死んでたとしても受入れようと思った。―――でも、わからなくなった。」
「―――ヴェルナー」
「サイフォス=ライトロウがいないというなら、俺が出会ったあの人は何だったんだよ!?俺は誰に助けられたっていうんだ!?俺がここにいる意味は何なんだ!?俺は――――!」
「ヴェルナー=ライトロウ!」
アイリは、ヴェルナーの名を叫ぶと、今度は本当に頬を叩いた。先ほどと同じ乾いた音、違うのは、アイリの手のひらに残る痺れと胸を締め付ける悲しみが付随すること。感情のまま、アイリはヴェルナーを抱きしめた。突然の事にヴェルナーの体が強張ったのがわかる。
「あんたはヴェルナーよ!嫌味で憎たらしくて、口開いたら喧嘩になるけど、仲間思いで頼りになる私の大切な仲間よ!」
アイリの腕の中で、ヴェルナーの方がびくりと跳ねた。
「私最近思った事があるの。私はあんたの事を一方的に怨んでいたけど、いつの間にかそれも消えた。それは多分、今のあんたに会えたからだと思う。」
そして、アイリは肩に置かれていたヴェルナーの頭を無理やり上げさせ目を合わせた。
「今のあんたに会えたから、きっと私はあんたを許せた。過去のあんたを見たからじゃない。あんたが過去に誰と出会って、何を思ったか。それはあんたを形作ったものであっても、今目の前にいる私には必要ない。ここにいるのはヴェルナー=ライトロウ!私が今、見て、触れて、話しているのは、ヴェルナー、あんた以外の何者でもない!」
間近にあった銀の瞳がこれ以上ないほど大きく見開かれた。明かりの無いはずのこの場所で、それだけが一際輝いて見える。
―――ああ、綺麗だな。
アイリは純粋に、そう思った。この瞳を悲しみに染めたくないと、心から思う。
どれくらいそうしていただろうか。やがてアイリの手がヴェルナーの手のひらに包まれ、そっと引きはがされた。
「…サイフォスがいないって言われて怖くなった。でも本当に怖かったのは―――」
ヴェルナーはかすれた声で呟いた。アイリは途切れた言葉の続きをじっと待つ。
「本当に怖かったのは、少将やお前が俺の身勝手で傷ついていた事かもしれない。恩師を探すんだって息巻いて、周りに迷惑かけて、俺一人が空回りしてた。―――もし、この先同じようなことをして、俺のせいで何もかもダメになって、皆が俺を責めたら、俺を見離したら。―――それが一番怖かった。」
見捨てられる事。それは幼い頃から誰にも頼ることなく生きてきたヴェルナーの人生の中で、初めて生まれた恐怖なのかもしれない。今まで自分を支えていたものが虚無であった事が、今目の前にあるものを失うことの恐ろしさを生み出したのだ。きっと彼は、恐怖に押しつぶされそうになりながら、心の中でずっと泣いていたのだ。
だからこそ、アイリは笑いかけた。
「迷惑かけて当然なのよ。迷惑かけて、かけられて生きていくのが人なの。それが誰かと生きていくって事なの。確かに離れていく人もいるけど、留まって一緒に考えてくれる人は同じだけいる。少なくとも私たちは後者よ。」
アイリが笑みを作るとようやく彼は笑ってくれた。悲しい笑いじゃない、いつもの不敵な笑顔に。アイリに肩にヴェルナーの額が圧しつけられる。微かな声ではあったが、確かに「ありがとう。」と聞こえた。
第十章完




