第十章 フーベルト=シュネイの手記(5)
その手記はところどころ字が薄くなっていたり、破けていたりして読む事が出来なかった。その概要も把握できない。だが、いくつかわかった事もある。
第一にフーベルト=シュネイは、何か重要な実験を行っていた事。おそらく記述術に関するものだ。そしてその実験に何らかのかかわりがあるのが父シーザ=ジュンアであった事。
第二にシュネイはシーザを巻き込む事に罪悪感を抱き始めた事。そしてその罪の意識からシュネイはそれをシーザに自白し、シーザはそれを受け入れたという事。
第三にもしシュネイ自身に何かあった時のために、息子のカインツァベルにそれを託したという事。
未だ謎の多いことだらけだが、これだけの事がわかった。死期迫る父の面影が読み取れるこの手記は、間違いなくアイリにとって有益であり、そして衝撃的な物だ。だがそんな父の動向は、この手記を読む前からある程度予想できたことだ。それよりもアイリにとって最も予想外だったのが最後の一文だった。
「ライトロウ…。嘘、なんで……?」
この手記が書かれたのは十五年前、イシルとの戦争前後だ。という事は、このライトロウというのはまだ十歳にも満たないヴェルナーであるはずがない。やがてアイリの中で一人の人物に行き着く。
サイフォス=ライトロウ。
いや、偶然姓が同じだけなのかもしれない。だが、偶然というにはあまりに身に覚えのある名前でありすぎた。
アイリはシュネイの事も父親の事もすっかり頭から飛んでいた。だから、手記の最後に書かれていたもう一つの単語に、すぐに気が付けなかった。
『東 左二 上三 青の表紙』
単純な文字の羅列に、アイリは目を丸くする。二三度反芻して、それがこの部屋の本棚の事を示しているのだと感づいた。
―――東向きの壁。左から二列目上から三段目。
指定の通り目で追っていき、目的の段の前に立った。本はすぐに見つかった。おそらくシリーズ物になっている黒い表紙の本列の中に、一際目を引く鮮やかな青の背表紙を見つけた。
手に取った瞬間、何故か異様な生温かさを感じた。まるで生き物のようで不気味だ。恐る恐る表紙をめくる。そして最初の一文を読んだ。
『比類なき観測者に告げる』
その文字が目に入った刹那、アイリの身体に激痛が走った。あまりの衝撃にアイリは膝をつきその場に蹲った。
「……あ、がっ…!――――ああっ!!!!」
獣の慟哭が聞こえる。それが自分の口から漏れ出ているのに気付かなかった。アイリは床をのたうち回り、胸元を掻きむしった。全身が焼けるように熱い。皮膚が肉体から剥離する様な感覚、そしてその隙間を何か得体のしれない物がずるずると這いまわり蹂躙する。吐き気と涙が同時に押し寄せ脳が麻痺した。
―――だれか、だれか…!!
頭の中で何度も助けを呼ぼうとするが、発せられるのは力ない喘ぎばかりだった。どうする事も出来ずにただ痛みと恐怖に耐えるアイリだったが、とうとう限界が訪れたか、目の前が暗闇に包まれた。
◆
右頬がひどく冷たかった。目の前には、古びた赤い絨毯が広がっている。アイリはそれをしばらくの間じっと眺めていた。自分は何をしていたのだろう。頭がくらくらして思考が追いつかない。
そんなアイリの視界の前を、またしても小さな住人が横切った。
「うひゃあ!」
本日二度目の邂逅にアイリは飛び上がってネズミを半泣きになりながら睨みつけた。一方でネズミの方はと言うと、素知らぬ顔をしてさっさと自分の巣穴へと戻っていってしまう。
開け放っていた窓からは西日が射しこんでいた。橙に染まったカーテンが静かに揺れている。あれから幾分か時間が経過してしまったようだ。
アイリは全身をくまなく確認する。どうやら突然の激痛にしばらく意識を失っていたようだ。だが、今は何ともない。まるで先刻の出来事は夢であったかのように、書斎は物静かだった。
「……なんだったんだろう?さっきの?」
いくら首をひねっても答えがみつからない。アイリは考えるのを諦め、書斎を出る事にする。だが、
―――あれ?
一つ奇妙な事に気が付いた。アイリが手に持っていたはずのシュネイの手記と青い表紙の本、そのどちらもが見当たらない。倒れた時にどこかへやってしまったのだろうか、とアイリは手元近くを探してみたが見つからない。本棚を調べても同様だった。結局、その二冊の行方がわからないまま、アイリは捜索を切り上げざるを得なかった。
◆
あれから数時間たった今、アイリは夜風に当たっている。バルコニーから外を眺めると、街はシンと静まりかえっていた。戦闘が始まるかもしれない、そんな予感が住人たちの息を殺させていた。生気の無い街を見下ろしながら、アイリはため息をつく。書斎で起こった一連の出来事がまるで夢であったかの様に、平穏な時間が流れていた。
それ故に、アイリは自分が手にした情報を熟考することが出来た。シュネイ氏の思惑と心境の変化、父シーザとの関係、カインツァベルへの遺言、『観測者』という謎の言葉、―――そしてライトロウの名前。
あれから、ヴェルナーとも顔を合わせたが、アイリは手記の件を話さなかった。正確に言うと、まだあの時の事を誰にも打ち明けていない。自分の経験したものが一体何であったのか、アイリ自身にも計りあぐねていた。
特にヴェルナーには伝えられなかった。彼が今何か悩みを抱えている状態で、そんな曖昧な情報を提示しては、きっと混乱する。なんとなく、悪いようにしかならないと思った。
先行きの不安ばかりが募ってゆく。きっと変な夢を見たせいだろう。アイリは頬を叩いて気持ちを入れ替えると、もう一度寝台へ戻ろうとした。その時だった。
―――ヒュン
どこからか、空を切る様な鋭い音が聴こえた。ほどなくしてもう一度。この音は馴染みがある。剣が空を切る音―――素振りの音だ。
音の根源を求めてバルコニーの淵から身を乗り出した。ちょうどアイリの視点からは死角になっていたが、どうも庭の片隅に誰かいる。アイリはカテラを起こさぬよう部屋を抜け出し、階下に降りた。




