第十章 フーベルト=シュネイの手記(3)
オズは黙ってアイリとカテラ、イアーナの分を注ぐ。
「それで、オズ。メリノの戦況はどうなってるの?」
イアーナが尋ねると、オズは先ほどとは打って変わった真剣な表情で情報を伝える。
「はい。この街に戦争の知らせが入ったのは三日ほど前です。我々はすぐさま住人に勧告を出し、メリノ兵を召集しました。先遣部隊の報告によると、イシル軍はすでに陸路でも進撃を開始している模様で、ほどなくこちらにも軍が侵攻してくると思われます。」
「じゃあ、この先はすでにイシル軍の勢力が手をかけているという事になるのね。」
アイリたちの目的地であるメテルリオンもすでにイシル軍が侵攻しているとみてよいだろう。
「それと今朝方、駐屯兵団の方にオルセン軍本部より通達があったそうです。今一戦では東部の前線基地をメリノに置くと。おそらく数日のうちに、本部の連隊がこちらへ到着するでしょう。」
前線基地には、武器兵站の貯蓄と輸送計画を司る兵站部署、兵への給養施設、戦闘全般の指揮を執る作戦本部が必要になる。帝国最果ての地メテルリオンから適度な距離があり、これらの施設を担うだけの大都市はメリノをおいて他に存在しない。先の戦争でも、ここメリノはオルセン軍の重要な拠点となった。今回もその役割は変わらない。
「そうなると、やはり私たちがメテルリオンヘ行く方法は…。」
現段階でアイリが考え付く、『最も有効なメテルリオンヘの行き方』、それは―――、
「オルセンの進軍に同行する。それが最善の方法だと思う。戦闘に巻き込まれる可能性は高いけど、私たちが単独で戦場をうろつくよりも安全で確実よ。」
懸念があるとすれば、同行の許可を議長代理であるイアーナに取りつけてもらわなければならない事、そして本部から捕縛命令があったアイリたちにとって連隊と行動を共にするのはリスクが高いという事だ。だがメテルリオンヘと辿りつくにはこれしかない。
「私も覚悟の上でここまできたもの、危険は承知しているわ。」
カテラも堅固に頷いた。すると、詳しい事情を知らないオズがこちらに目を向ける。
「お嬢さん方はメテルリオンを目指していたのですか?」
その旨をイアーナが簡単に説明すると、オズは意外なところでその眉を上げた。
「ジュンア…。ひょっとしてあなたは、シーザ=ジュンア様の御親族の方でしょうか?」
「夫を御存じなのですか?」
不意をつかれたカテラとアイリはお互い目を丸くして、オズを凝視した。イアーナも不思議そうにオズに尋ねる。
「オズ。シーザ=ジュンア様って?」
「亡き旦那さまのご友人にございます。私も一度お会いしたことがあります。…そうそう、確か十五年前の戦争の折に、連隊長であったジュンア様が前線基地であるメリノを訪れた際に仲良くなられたとか。お嬢様は遠方へと避難しておいででしたので、面識が無いのでしょう。」
オズはその過去を惜しむように目を閉じた。父の知らない一面を知ったアイリは、知らずに身を乗り出す。
「年が近い事もあったせいか、随分と気があったようで、戦場という殺伐とした環境の中でもお二人はいつも楽しそうにしておられました。あの戦争でお二人が亡くなられた時は、私も身が切られる様な想いでございました。」
「父さんとイアーナのお父さんって一緒に亡くなってたの?」
アイリとイアーナはお互いに顔を見合わせた。イアーナとは成り行きで共に行動していたが、ここにきて意外な共通点を発見する事になるとは思いもよらなかった。
「ジュンア様は連隊を率いてメテルリオンヘと向かわれ、旦那様がそれに同行したのです。」
「何故?ご主人は軍人では無かったのでしょう?」
その質問にオズは苦悶の表情を浮かべる。
「…それがわからないのです。私は直前までお止めしました。民間人であるあなたがわざわざ戦場へ赴く必要は無いと。ですが、旦那様は行かねばならないと、それが自分の使命であると―――。」
使命、という言葉に何かただならぬものを感じる。イアーナの父親は一体何を果たそうとしていたのか。オズはそれっきり口を噤んでしまい、質問する事も憚られた。
アイリはすっかり冷めてしまった紅茶のカップを手に、新たに浮かんだ疑問に考えを巡らせていた。
◆
「ここがイアーナのお父さんの書斎?」
アイリは薄暗い部屋に足を踏み入れると、部屋の中を眺める。赤いベルベットの絨毯に高級なクヌギの書机。壁は三方が本棚になっており、隙間なく本が並べられていた。古い書物独特のカビ臭いにおいと埃っぽさで少しむせ返りそうになる。
「ごめんなさい、お父様が亡くなってからここにはほとんど手を入れてなかったから。今窓を開けるわ。」
イアーナが厚いカーテンを開けると、化石のように時の停滞した室内が一気に真昼の木漏れ日に包まれた。ほどなくして新鮮な空気が肺を満たす。
「でもお父様の事を知りたいって、何か気になる事でもあったの?」
先ほど、応接室でオズからイアーナの父親とアイリの父親が懇意だったと聞いてから、イアーナに彼女の父親について詳しく知れる場所は無いかと尋ねた。そして彼女に案内されたのが、この薄暗い書斎だったのだ。
「少しね。イアーナは気にならないの?どうして自分の父親が危険を冒してまでメテルリオンヘと向かったのか。」
「…それは、気にならないと言えば嘘になるけど、もう十年以上前の事だし。今更知っても私にはどうしようもないもの。」
同じく父親を失くした者同士だが、その反応は対照的だった。だが、イアーナの言い分も決して間違いではない。だからアイリはイアーナにそれ以上何もいわなかった。
アイリが気になったのは、単に父親たちの死が関わっているからではない。彼らが向かったという場所がメテルリオンだったからこそ、ここまで追及したいと思ったのだ。
ペンダントをメテルリオンへと持っていく。カテラが父親らしき謎の男に託されたこの言伝の意味すら、実のところアイリたちにはわかっていない。よく考えればおかしな話なのだ。自分たちには知らない事が多すぎる。
だが、ここにきて初めて父親に関する情報を手に入れた。しかも目的地メテルリオンにも関係する事だ。何か手掛かりがあるかもしれない。
アイリはざっくりと本棚を回る。埃を被っていて題名が読みづらいが、どの本も非常に年季の入ったものだ。ためしに一冊、目線の高さにあった本を開いてみる。中身はさほど劣化していないようだ。
「歴史書かしら?なんか小難しい事が書いてあるけど。」
「お父様は色んな書物を読むのが好きだったみたい。私も小さい頃ここにきてこっそり本を読んでたけど、結局どれも難しすぎてわからなかったわ。」
「父親は何をしていた人なの?」
「医学系記述術の研究者よ。人体記述についての研究をしていたの。私が研究者になったのも父の意思を継いでの事よ。まあ、興味のある分野は全然違ったんだけど。」
「なら、ここに研究資料とか残ってないかしら?」
アイリは試しに、書机の方を調べてみる。添えつけの引き出しを順番に空けてみたが、どこも空っぽでそれらしい物は一つも無かった。
「研究資料はほとんど、街の方にある研究施設に寄贈されてるわ。」
「という事は、その研究施設を訪ねるべきなのかしら?」
だが、正直研究資料を見たところでアイリには理解できないだろう。専門家に助力をもらえばわかる事だが、そもそもアイリの知りたい事は父親たちの事であって、シュネイの研究概要についてではない。
「じゃあ、他に彼が残した物はある?例えば手記とか、個人的な遺品とか。」
「…ごめんなさい。遺品に関しては私もオズもよく知らないの。知っているのは多分…。」
「…多分?」
「…お父様の遺品は、ほとんど兄さんが保管していたの。兄さんなら、何か知っていたとは思うけど…。」
イアーナは俯いてそれきり沈黙してしまった。
アイリたちが街で出会った子供の振る舞いをする男性。そういえば、まだ彼の事を詳しく聞いてはいなかった。
「…お兄さんの事、聞いてもいい?」
アイリは恐る恐るイアーナに尋ねた。しばらくの間無反応だったが、やがてイアーナはぽつりと話しだす。
「兄さんは、私と十歳以上年が離れていて幼い頃から私の事を可愛がってくれたわ。学者である父に反して、この街を守る政治家になりたいと言って、統括議会の議員に当選してからは、目まぐるしいほどの活躍をしていた。父が亡くなってから、市民の支持を獲得し議長に選ばれた時、私も兄さんも手を取り合って喜んだ。でも五年前、兄さんは突然の事故に遭い脳に障害をきたしたの。」
「脳の障害?」
「ええ、詳しい事は私も知らないけど、脳が損傷して、それまでの一切の記憶と知能が消滅し、乳幼児の頃にまで後退してしまったそうなの。」
イアーナの話をどこか遠い世界のように聞いていた。脳の構造やそのメカニズムについては、近年明らかになりつつあるが、幼児退行など果たしてそのような事が実際に起こりうるのだろうか。
「お医者様は精神的なものの可能性もあって、何らかのきっかけで元に戻るかもしれないとおっしゃっていたけれど、五年たった今も兄さんに回復の兆候は見られないわ。…つまり、今の兄さんの記憶と知能は五歳児の状態のままだと言う事。」
ああ、だからか。アイリは先刻のカインの様子が腑に落ちた。確かにあれはまだ幼い子供の言動そのものだった。身体は成人であっても、彼自身はまだ五歳だと思っているのだ。
「私のことも妹ではなく姉だと思っているわ。あまり負担をかけないように私もそのつもりで振舞っている…けど…。」
話している途中で、イアーナの言葉端が揺れた。イアーナは目元を抑えて、堪えるように蹲る。
「ごめんなさい。辛い事聞いてしまって…、話してくれてありがとう。」
「ううん、大丈夫。…アイリはまだ書斎調べる?私は部屋に戻るから。鍵は空けたままでいいわ。」
そう言って、イアーナは書斎を出て行ってしまった。なんだか申し訳ない事をしてしまった。聞いてはいけない事だったのかもしれない。
当然だ。今まで慕っていた兄がある日突然別人のようになってしまったのだ。外見は何一つ変わらないのに、その言動の全てが、そして共に積み重ねてきた記憶が、何もかもかみ合わない。もし、カテラが同じ状況になったとしたら、アイリはきっと耐えられない。イアーナはその苦痛にもう五年も絶えていたというのか。
(……調べ物、続けよう。)
今、アイリに出来る事はイアーナに同情し嘆く事ではない。アイリ自身の行く末を確かめるために、まずは父親の事を知らなくてはならない。




