第十章 フーベルト=シュネイの手記(1)
「それでその男逃がしちゃったんだぁ。」
暗い闇の中から舌ったらずな少女の声がした。
「あの博士の妨害があったんだ。仕方ねぇだろうが。」
少女の声に答えたのは、ひどく粗暴な男だった。少し不服そうな男に対し、少女はきゃらきゃらと甲高い笑い声を上げる。
「情けないなぁ。あのおじいちゃん今はもう子供でしょ?そんなのに負けるなんてほんとランドルフってカッコわるーい。」
「うるせぇ!てめぇはどうなんだよ!リーシャ!」
今にも殴りかかりそうなほどの気迫で迫るランドルフに対し、リーシャと呼ばれた少女は、ソファに横たわりながら、気だるそうに返事をした。
「私はちゃんとやってるじゃん?私のおかげで帝国と共和国の戦争も始まったし。」
「どうせ指導者誑しこんで言う事聞かせただけじゃねぇか。毎度毎度よく引っかかるもんだぜ。権力者は馬鹿しかいねぇのか?」
「あら、じゃあ試してみる?」
リーシャは腰を上げて、ランドルフににじり寄った。見た目は十代半ばのどこもかしこも未成熟な少女だが、表情や仕草から湧き立つ色香は尋常ではない。リーシャの本性を知っているランドルフでさえ、こうして迫られると喉を鳴らしてしまう。男の性というものはつくづく厄介だ。
ランドルフの上にしな垂れかかってきたリーシャを精一杯の理性で振り払うと、リーシャは小さく悪態をつく。
「つまんない男。」
「……こんな時に遊んでる場合じゃねぇんだよ。」
「ええ、その通りですよ。」
暗闇から声がした。ズルズルと衣を引きずる音が響く。その影から出てきたのは、闇のような黒髪を周囲に溶け込ませた、線の細い男だった。
「あは、遅かったじゃない、イザイア。」
ランドルフの上から飛び降りたリーシャはそのままの勢いでイザイアの首元に抱きついた。比較的長身のイザイアと小柄なリーシャでは、彼女の足がぷらぷらと宙に浮いた状態になってしまうが構わず抱擁を続ける。
「リーシャさん。あまりランドルフをからかうんじゃありませんよ。」
「ふふ、だってランドルフってからかいやすいんだもん。イザイアはちっとも相手にしてくれないし。」
頬を膨らますリーシャとにこやかに笑うイザイア、そしてそれを見てますます不機嫌になったランドルフが苛々と椅子の肘かけを叩く。
「なんでもいいから、さっさと報告しろ!イザイア!カテラ=ジュンアの動向はどうなったんだよ!」
今にも噛みつきそうな獣の目で睨むランドルフに対し、あくまでも冷静なイザイアはゆったりとランドルフの正面の椅子に腰かけた。
「どうなったも何も…あなた、シュトラウツァでヴェルナー=ライトロウにあったのでしょう?彼らは順調にメテルリオンへと向かっていますよ。…ああ、戦争が始まれば多少足も鈍るでしょうが。」
「ちっ、止められないんじゃ意味がねぇじゃねぇか!こっちは博士の捕縛に手一杯だったってのによ。」
「でも捕まえられなかったじゃない?」
茶化して笑うリーシャに、ランドルフは勢いよく飛びかかる。女に暴力は…、などという流儀はリーシャに対しては一切ない。リーシャはまた甲高い声で笑いながら、ランドルフの拳をあっさりと避けていく。
「やめなさい、君たち。」
イザイアは眉間にしわを寄せながら、大男と少女がじゃれ合う姿を眺めていたが、いい加減耐えかねたのかぴしゃりと言い放った。
「とにかく、我々の今の仕事は多いのです。一分一秒も暇を潰している時間は無い。」
ランドルフとリーシャもこれ以上は時間の無駄だと判断したのか、大人しく席につく。
「まず、我々が最優先で成さねばならないのが、カテラ=ジュンアの動向を阻止する事です。彼女がメテルリオンに到着してしまえば、間違いなく『例の女』に関する最悪の展開が待っているに違いありません。そして、その次に成すべき事は、ヴェルナー=ライトロウの排除です。」
ヴェルナーの名にリーシャはすかさず反応した。
「その男そんなに重要なの?」
「少なくともあの男の存在のせいで、この写しに大きな狂いが出ています。奴が何者なのかは計りしれませんが、早急に排除すべきでしょう。」
イザイアは手元にあった厚い本をパラパラとめくる。しばらく二人の方には目もくれず、一心不乱に本に目を通していた。
「そのヴェルナーって奴も、あいつらが組み込んだ駒ってことか?」
いっこうに頭を上げないイザイアに業を煮やしたランドルフは、反対側から本を覗きこみその内容を探る。
「そうかもしれませんね。なにせライトロウの名を語っているのですから。」
「…なら私が殺してきてあげようか?」
真剣な顔で本を睨みつける男二人を尻目に、リーシャがどこまでも無邪気な顔でそう言った。
「ちょうど人形も帰ってきた事だし。カテラ=ジュンアの邪魔をするなら、一緒に葬ってあげる。」
まるでついでにお茶でも煎れてあげる、と言った体でとんでもない事を口にする少女は、再びソファの上でごろごろと体勢を崩し始めた。
「そうですか。ではあなたに頼むとしましょうか。」
「まかせといて。あなたたちは帝都の方よろしくね。」
リーシャは雌豹の様な動作で起き上がると、二人を置いてさっさと部屋を後にしてしまった。その背中を目で追いながら、ランドルフは舌打ちする。
「いけすかねぇ女だ。」
「そう言わずに。彼女の力が無いと、何もかも立ちゆかなくなってしまいます。彼女は私たちの中では一番古参なのですから表面上だけでも敬わないと。」
にやりと含み笑いを浮かべたイザイアは、また手元の本に意識を没頭させてしまった。話相手のいなくなったランドルフは、椅子に深く座りなおし盛大にため息をついた。
◆
爆発音と硝煙の匂い、土埃に人間の悲鳴、そして血の色。見覚えのあるようで、見覚えの無い、だがどこか現実味のある光景。
全身が焼けるように痛い。どこか怪我でもしたのだろうか?視界も淀んでいて周りがよく見えない。靄がかかった様に辺りは暗かった。
ゆっくりと焦点が定まってきた。まだ白黒の景色だが、今自分がどこにいるのかははっきりと認識できる。
戦場、それも激戦地のど真ん中だ。
―――どうして私、戦場にいるんだろう?
早く起きなければ。敵兵に気づかれたらやられてしまう。早く、早く、早く―――!そう思うのに体はぴくりとも動かない。
「……絶対に……助けてやるからな……!」
声が聞こえた、男の声だ。それと同時に眼前で影が動く。すらりとした巨躯に銀色の髪、ちらりと見える銀の双眸はこれ以上ないほどに鋭く前方をにらみつけていた。
男の背中越しに見えたのは長い髪をふり乱した少女だった。だが様子が尋常ではない。うつろな目をした少女は一片の表情もなく、眼前の男を見下ろしていた。そう、見下ろしていたのだ。少女の足は地面を離れ自身の身の丈ほどの高さで停滞していた。重力に逆らっている少女にさらに輪をかけて異常性を醸し出しているのは、彼女の周囲を飛び回る白い帯の大群だ。それらが彼女の体に絡みつき、体を支えている。それはまるで操り人形に絡みついた操り糸のように―――。
鋭い咆哮とともに男が、少女に詰め寄った。彼の手にはサーベルが握られている。勢いとともに、サーベルを一閃し、纏わりついて来る帯を払いのけていた。
少女は迫りくる男にも表情を変えない。少女の代わりに反応を見せたのは、周囲に漂っていたその白い物体だった。それは目にもとまらぬ速さで男の持っていたサーベルに絡みつきあっという間に奪い取ってしま
う。それだけでは終わらず、残りの物体は攻め寄ってきた男の体をいとも簡単に拘束し、少女同様に巻き上げてしまった。
男は渦の中を巻き込まれんと必死にもがいた。腕に纏わりつくそれを反対の手でちぎり、顔に巻きついたそれをかみちぎった。もがき続けて、それでもなお少女のもとに手を伸ばす。
その一部始終を男の後ろでずっと見ていた。動けない体で、ただぼんやりと見続けていた。
―――この人は誰だっけ?どうしてこんなことしているの?
朦朧とした意識の中、目の前に広がる光景をただ何とはなしに眺めていたとき、視界の端に鮮明な光沢が差し込んできた。
先ほど男が手放した抜身のサーベルに白い帯が巻き付いてふわふわと宙を漂っていたのだ。だが突然そのサーベルは明確な意思を持って動きを変えた。サーベルはその刀身を立て、ゆっくりと身動きの取れない男の背後に忍び寄り、そして――
―――ダメ!後ろ!
男の背中にサーベルが深々と突き刺さったその瞬間、朦朧としていた意識が覚醒し、同時に絶望と恐怖が襲いかかった。
「!!?」
悲鳴を上げかけたその時、突然意識が引っ張られアイリは目を覚ました。大きく見開いた目には、豪華なシャンデリアの吊り下がった天井が映っている。心臓がどくどくと体を叩いて煩かった。
周りを見渡すと、そこはベッドの上だった。隣のベッドではカテラがすやすやと健康的な寝息を立てて眠っている。窓の外はまだ暗く、寝入ってからそれほど時間は立ってないように思えた。
「…夢……?」
曖昧にしか思い出せないが、ひどく生々しい夢だった気がする。全身は汗でぐっしょりと濡れ、呼吸も浅い。しばらく寝付くのは無理そうだ。
夜風に当たろうと思いたち、カテラを起こさぬよう、そっと戸を開けてバルコニーに出る。
外は肌寒いくらいだったが、火照った体にはちょうど良かった。帝都と違ってここは冷える。随分と遠くまで来たのだな、と実感する。城郭都市メリノの夜景を眺めながら、アイリはここへやってきた時のことを思い出す。




