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第九章 真実は虚無(5)

 避難勧告が出されたシュトラウツァでは、日も昇らぬ明朝にも関わらず、キルシュへと馬車で避難する人々でごった返していた。不安そうに親にすがりつく子供の泣き声、周りに当たり散らす老人の喚き声、自主的に避難誘導をする溌剌とした若者の声。様々な音色が混じり合う中、兵たちは着々と作業を進めていた。おかげでさほど大きな混雑は見られない。


 そんな中、アイリたちが乗る馬車の用意も整った。市民たちが乗る馬車と同じ中型の馬車だが、行先は異なる。この馬車が向かうのは東。間も無くすれば戦場ともなりえる危険な行路へと向かう馬車だ。


「準備はすんだのかね?」


 出発まで何もすることがなく座り込んでいたアイリに、パヴコヴィックが声をかけた。積み荷を持たない軽装の少年は、避難する市民で溢れかえっている門前では逆に浮いている。


「博士は避難しないんですか。」

「ああ、私にはここの研究所を守る義務があるからな。たとえここがイシルの手に落ちても、研究所を好き勝手にさせるわけにはいかん。」


 下手をすれば自分の身も危険にさらされるかもしれないというのに、それでも研究所を守るという使命に従事しようというのだろうか。いや、彼にとってはそれが当然なのだろう。


 ―――ああ、そうか。


「なんか博士って、私の父に似てます。決めた事にまっすぐなところとか、辛くても笑っていようとするところが。」


 自分よりも年下にしか見えない少年にそう告げるのもおかしな話だ。だが、実際にアイリはそう思った。勘違いでもなんでもなくそう感じたのだ。


「はは、父親か。」


 パヴコヴィックはアイリの言葉に少し照れたように笑った。


「そうだ、君に餞別としてこれを渡しておこう。」


 そう言ってパヴコヴィックが取り出したのは、手のひら大の手鏡の様なものだった。


「鏡…ですか?」

「お守りだ。一度だけだが記述術を無効化できる。」


 縁も取っ手もない銀の円盤は、ただアイリの顔を映し込んでいる。何の変哲の無い鏡だが、そこにはアイリには見る事の出来ない「記述」が確かに編み込まれているのだろう。


「この先、研究所で鉢合わせした様な連中が現れないとも限らん。普通の戦い方では勝ち目は無いぞ。奴らとの接触は極力避けろ、良いな?」

「はい、ありがとうございます。」


 アイリはもらった鏡を内ポケットにしまい込む。


「それから、青年にもよろしく伝えておいてくれ。あと、話の続きもあるからいつかここに戻って来いとも言っておいてくれるか?」


 パヴコヴィックはアイリたちの馬車の方を見た。そこには、すでに準備を終えたヴェルナーが乗っているはずだ。あれから、ヴェルナーは全くいつもと変わらない様子でアイリたちに接していた。しかし、時折、本当に一瞬だけやりきれない悲しさを秘めた表情を見せるのだ。それが不安でアイリが話しかけると、ヴェルナーはまたいつも通りになっている。自分の気のせいなのか、それすらもわからなくなっていた。


「あいつ…何かあったのかしら?」

「……さあ、心配ならお嬢さんが見ていればいい。」


 パヴコヴィックも自分と同じ違和感を抱いていたらしい。


「苦しそうにしていたら支えてやれ。ウジウジしていたら引っ叩いてやればいい。」


 悪戯っぽくパヴコヴィックはアイリにアドバイスをした。それを聞いてアイリも少し微笑んだ。


「わかりました。呆けてたら目を覚まさせてやります。」

「それでいい。お嬢さんがいればきっと大丈夫だ。」


 アイリはパヴコヴィックと握手を交わした。自分と同じくらいの少年の手、しかしそれはとても大きく重い手のように感じられた。


 夜が明けぬうちに、アイリたちは避難馬車に紛れ、シュトラウツァを後にした。

 キルシュへと向かう馬車の中、一台だけ方角を逆に進む馬車。後数日もすれば激戦地になるであろう、国境方面へと向かう馬車は誰に止められることなく、市民たちの視界から消えていった。


第九章完

なんか男性陣が揃いも揃ってウジウジしていてすみません。そのうち立ち直らせます。

さて、今回登場したノルキース。ヴェルナーに厳しい事を告げましたが、彼自身にも色々過去があった故の、あの態度なのです。

その辺りの事はいずれ本編か、番外編みたいなもので書きたいなぁ、と画策中です。

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