第八章 恩師を知る者(1)
その出来事はヴェルナーの常識の範疇を越えていた。アイリが受付の女性を助けるため飛び出していった後、どうしようかと考えあぐねていたヴェルナーの隣でパヴコヴィックが立ち上がった。パヴコヴィックは開けた廊下の真ん中で、懐から手帳を取り出すと、何やらぶつぶつと呟き始めた。一体何が始まるのかと目を見張ったその瞬間、パヴコヴィックの周囲に巨大な水の塊が出現し、強力な水流となり目の前の待合室を駆け抜けた。水流はアイリを捕らえんとしていた兵士たちを全て飲みこみ研究所の外へと消えていく。突然の出来事にただ呆然とする事しか出来なかったが、頭の中でその正体がなんであるか、おおよその見当はついていた。
記述術、通常の人間には目にする事も不可能な「記述」と呼ばれる物質を使用する事で、天変地異を引き起こす事も出来る。記述術の権威と呼ばれたこの少年こそ、その数少ない達者なのだ。強力な記述術を目の当たりにしたヴェルナーたちをよそに、パヴコヴィックはゆっくりと待合室にいる男へと近づいていく。そして男の名前を呼んだ。やはり、パヴコヴィックはあの得体のしれない男と面識があるのだ。
「ヴェルナー、どうすんだよ、これから。」
ヴェルナーと同じく我に返ったバズが、ヴェルナーの肩をつついてくる。
「とにかくここから逃げるしかない。でもアイリを連れてこないと、それに博士も気がかりだし……。」
かといって、こちらにはカテラやイアーナもいる。こうなった以上、ここに留まるのはあまりにも危険だ。
「バズ、お前は二人を連れてどっかに裏口かなんかないか探せ。で、二人を安全な場所に避難させろ。」
「わかった。お前は?」
「隙を見てアイリと逃げる。博士も出来たら連れていく。」
バズとお互い無言で頷くと、三人は入り口とは反対方向に向かった。カテラがまた心配そうな顔をしていたが、
「大丈夫です。無茶はしませんから。それより、さっきの連中の行方が気になります。くれぐれも彼らに見つからないようにしてください。」
「……わかったわ。」
静かに頷くと、バズの背を追って駆けだした。
ヴェルナーは再び待合室の方に意識を集中させる。そこから、パヴコヴィックと男の会話が聞こえてきた。
「随分、みすぼらしい格好になったもんだ。会うのは何年ぶりかねぇ?」
ケタケタと笑うランドルフに対し、パヴコヴィックも笑みを返す。
「もう二十年近く会っていなかったのではないか。まあ、私は一生会いたくなかったがね。」
何やら殺伐とした会話を交わす男と少年。その節々に理解しがたい単語がいくつか上がっているが、ヴェルナーが首をひねっている間にも、両者のにらみ合いは続く。
「……なぜ、オルセン軍に加担する?」
「教えられるわけねぇだろ。軍事機密だからな。」
「では、ここへ来たのは私を軍に連行するためか?」
「……なんだ、わかってんじゃねぇか。」
すると、ランドルフは片膝をあげ、勢いよく床の大理石を踏みつけた。踏みつけた床を中心に放射状のヒビが入る。ただのヒビではない、それは床一面に広がり、あろうことか壁の漆喰にまで伝わった。とてつもないエネルギーにヴェルナーは戦慄する。明らかに人間の域を超えた所業だ。だが、驚くには早かった。ランドルフが空に手をかざすと、それに呼応するように、先ほどの亀裂で生じた床や壁の破片が宙へと舞い上がった。何か見えない力で操られるかの如く、破片は不自然に宙に停滞し、旋回を始める。
「嘘……!何?」
宙を舞う破片の群れに驚愕したアイリが、怯えたように引き下がると、ランドルフはにやりと口角を歪めた。
「記述術ってのは、こういう事も出来るんだよ、嬢ちゃん。」
ランドルフが指を曲げると、無作為に宙を漂っていた破片が一斉にアイリの方へと向かっていった。無数の破片が凶器となってアイリに襲いかかる。だが、その間に揺らめく水流が割って入り、アイリの眼前に厚い水流の壁を作り上げた。水流の中には、アイリに迫っていた破片が速度を殺されふよふよと漂っている。
アイリを守ったのはパヴコヴィックの水の記述術だった。パヴコヴィックは先ほどの鋭い双眸からさらに怒気を孕ませ、ランドルフを睨みつけている。
「無関係のお嬢さんを巻き込むとは、そこまで外道だったかな?ランドルフ。」
「なにを言ってる?そいつは俺を刺したんだ、無関係じゃねぇだろうに。」
次にランドルフは、パヴコヴィックの方に照準を構えた。先ほどアイリに向けたものとは比べ物にならない程の量の破片がパヴコヴィックを襲う。それに対しパヴコヴィックはあくまで冷静に破片を水流で叩き落とす。一進一退の攻防にヴェルナーは思わず息を飲んだ。
だが、次の瞬間パヴコヴィックが弾き飛ばした破片の一片がヴェルナーが隠れていた壁の方に飛んできた。質量をもった破片は勢いよく壁に衝突し、漆喰をまき散らす。
「うわっ!」
頭上から降り注ぐ破片を避けて、思わず表に飛び出してしまった。悲鳴に反応して、ランドルフの視線がヴェルナーの方に向く。
「あぁ?なんだお前?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。隠れていたはずのヴェルナーは哀れにもその身をランドルフに晒し、そしてランドルフはヴェルナーの姿をまじまじと見ている。だが、予想外な事に、ランドルフは驚いたように目を見開いた。
「……銀髪に銀の瞳の三白眼、長身……、お前まさかヴェルナー=ライトロウか?」
「えっ。」
突然自分の名を呼ばれ、意表を突かれた。なぜこの男が自分の名前を知っている?―――その反応で、本人であると確信したランドルフは獰猛な笑みを浮かべる。
「ほう、やっぱりお前か。イザイアがヨドで見たっていう野郎は。」
「……何の事だ?イザイアって……?」
「あ?イザイアに会ってねぇのか?おかしいな、あいつヨドでサイフォスの縁者を見つけたって―――」
―――え?
その瞬間、ヴェルナーの思考が停止した。今、この男、サイフォスと言ったのか?何故サイフォスの事を知っているのか―――。ヴェルナーの頭の中が真っ白になっている間に、「まあいいか。」と適当に自己完結したランドルフは、今度はヴェルナーに向かって手をかざす。
「本当は博士を連行しに来たんだけどよ、サイフォスの関係者なら放っとくわけにもいかねぇし、ここで消えてもらうとするか。」
「―――!」
先ほどと同じく、床や壁から新たな破片が塵のように湧き、空気中に漂い始めた。そして、今度はヴェルナーの元にその鋭い刃を向ける。
「―――逃げろ!青年!」
パヴコヴィックの鋭い叱責で我に返ったヴェルナーはとっさに真横に飛んだ。間一髪、ヴェルナーが立ち尽くしていた場所に破片が降り注ぐ。破片は再び飛来しヴェルナーに標準を定めるが、それを水流が撃ち落としていく。
「青年、お嬢さんを連れて逃げなさい。」
傍によって来たパヴコヴィックが、水流を放ちながらヴェルナーに叫ぶ。だがその細い身体に、撃ち落としきれなかった破片のいくつかが深々と突き刺さり、パヴコヴィックはよろめいた。
「博士……!」
「私に構わず行け!この男は危険だ、お前を狙っているなら尚更ここを早く離れろ!」
パヴコヴィックが血を流しながらも強く窘めると、ヴェルナーはやや離れたところで動けずに立ち尽くしていたアイリの手を取って研究所の入口へと駆けだした。アイリは小さく悲鳴を上げたが、構わず突き進む。しかし、あと数歩で出口というところで、無情にも背中にランドルフの声が響く。
「逃がすわきゃねぇだろこのタコ。」
一際大きな地響きが鳴り響いたかと思うと、今まさにヴェルナーたちが抜け出そうとしていた、入口の真上の天井がガラガラと音をたてて崩れ始めた。とっさにアイリの身体を抱えて後退する。辛くも岩雪崩は避けたが、入口を塞がれ進む事が出来なくなってしまった。
「嘘……!入口……!」
絶望するアイリの横で、荒く息を吐くヴェルナー。逃げ道を断たれ、茫然となったヴェルナーの背後に、ゆらりと影が蠢いた。
「―――!がっ……!」
突如恐ろしい力で、首元を掴まれ、入口のがれきに叩きつけられる。息が出来ず朦朧とする視界に、ランドルフのおぞましい顔が映った。その後方には、瓦礫の上に無残にも倒れている少年の姿が見える。
「お前は一体、何を企んでやがる?サイフォスはどこ行きやがった?」
「……知ら…ない…!お前…こそ、なんでサイフォスを……知って…。」
ランドルフの腕を振りほどこうにも、信じられないほどピクリとも動かない。およそ人間とは思えない握力に、ヴェルナーは成す術なく意識を手放しかけた。が、
「……私の客人に無礼は許さんぞ!ランドルフ!」
ランドルフの背後から怒号が響いたかと思うと、再び水流が浮上しランドルフを襲撃した。ヴェルナーに気を取られていたランドルフは突然の猛襲に目を見開く。
「お前……!まだ動けるのかよ……!?」
ランドルフが驚愕して見つめた先には、全身に破片を浴びて血だらけになったパヴコヴィックの姿があった。その姿は満身創痍だが、瞳に宿った炎は未だ消えてはいない。
「マルス=パヴコヴィックを侮っては困る。帰ったらイザイアに伝えておけ、私はお前らの思い通りにはならない!私を止めたければ、お前が直々に息の根を止めに来いとな!」
パヴコヴィックは空に円陣を書くと、その手元からとんでもない量の水流を出現させた。先ほどの数倍はあり、尚且つその形状は鋭い刃物を思わせた。巨大な水刀は勢いをつけヴェルナーの目の前にいたランドルフを掻っ攫う。
水圧で全身を切り裂かれたランドルフは、恐ろしいほどの絶叫を上げ、その水流の中で消滅した。水浸しの瓦礫の山に、ヴェルナーとアイリ、そしてパヴコヴィックだけが残された。




