第七章 記述術の権威(6)
待合室に戻ると、そこにイアーナの姿を発見した。研究者との会談は有意義なものだった様で、頬を上気させ興奮冷めやらぬ様子でこちらに手を振ってきた。
「お帰り、皆。どうだった?」
イアーナの質問に、アイリが答える。
「ええ。こちらの用件も、何とかなりそうだわ。」
そう言って笑いかけると、イアーナも嬉しそうに笑った。先ほどまでは、なんだか彼女に対して、後ろ向きな態度しか取れなかったが、今はそんなことも無く、まっすぐにイアーナの目を見て笑いかける事が出来た。その事に、アイリの心はまた少し軽くなる。そんなアイリに、パヴコヴィックは最終確認をした。
「さて、お嬢さんの件については、こちらから文をしたためておこう。詳しい段取りについては、帝都の医師本人と決めてくれ。君たちはこの後すぐ帝都に戻るかね?」
その質問に、アイリは即座にいいえと答える。
「実は、もう一つ、ここでなさねばならぬ事があります。仲間の事も心配ですが、私はまだ帝都に帰るわけにはまいりません。」
「……そうか、では知人にはお嬢さんが戻り次第、詳しい事を取り決めるよう伝えておこう。なに、心配はいらん。話に聞いた限りなら、まだ幾分の猶予がある。」
アイリの不安を察したのか、パヴコヴィックは柔らかく告げた。その姿にひどく既視感を抱く。ずっと昔にどこかで感じた様な安心感。だが、目の前にいるのは、自分よりも年下のいたいけな少年だ。どうしてそう思ってしまうのだろう。アイリはしばらく考え込んでいたが、パヴコヴィックの後方、研究所の入口に見えた人影に気付くと、途端に顔が凍りついた。
「―――!隠れろ!」
同じく、人影の正体に気付いたヴェルナーが、アイリたちとパヴコヴィック、そしてイアーナに向かって小さく叫ぶ。アイリもヴェルナーに半ば引きずられる形で、先ほど通ってきた廊下の死角に身を潜めた。
「おい……、もしかして、あれ?」
受付にぞろぞろとやってきた集団を見て、バズも顔を青くさせた。
「ああ、どうして、軍がここにいる?」
黒を基調とした服、統率のとれた動き。それは間違いなく、軍人のそれだった。ざっと二十人はいる。ヨドでの一件を思い出し、アイリは顔をこわばらせた。
「もしかして、私たちを追ってきた…とか?」
「かもしれない。あの大尉はいないみたいだけど。」
待合室を覗きこむと、彼らの中にあの婚約者の姿は見当たらなかった。どうやらライムたちとは別の部隊らしい。と、その軍隊の姿を見て、一人冷静に構える少年がいた。
「いや、あれは、シュトラウツァの駐屯兵団だ。…妙だな、本部から協力要請を受けた事は何度かあったが、彼らがここへ来たのは初めてだ。」
パヴコヴィックがそう呟く中、ヴェルナーが「あっ。」と小さく声を上げる。
「あの真ん中の男昨日見た。確かここの駐屯兵団長だ。」
様子を窺っていると受付の方から威圧的な男の声が響いてきた。
「我々はシュトラウツァ駐屯兵団の者だ。マルス=パヴコヴィック博士はおられるか。」
「…申し訳ありません。博士は現在別の方と面会中です。」
「我々は急務の任でここへ来た。申し訳ないが、すぐに博士をお呼びいただきたい。」
「…それは不可能です。博士と面会したいとおっしゃられるのでしたら、もうしばらくお待ちください。」
アイリたちの面会手続きを行っていた受付の女性は、努めて冷静に対応していたが、軍の重圧に気圧され怯えているのは明白だった。
「ねぇ…、ちょっとあれやばいんじゃない?」
アイリの隣で身を潜めていたイアーナも落ち着かない様子で、事の成り行きを見守っている。と、そこに第三の影が彼らの元にやってきた。
「いつまでかかってるんだ。さっさと押し入って連れてこいよ。」
随分苛立った声で兵に命令したのは、大柄で武骨な男だ。最初は兵士の一人かと思ったが、軍服を着用しておらず、なにより纏う雰囲気が明らかに兵士のそれとは違う。その男の姿に、戦慄したのはパヴコヴィックだった。
「あの男は―――!」
信じられないという形相で、男を凝視している。つられてアイリたちもその男の一部始終を見た。
男は、ノルキースを乱暴に押しのけると、受付の女性に食ってかかる。
「おい、姉ちゃん。悪いが俺はちんたらされるのが大嫌いなんだ。手荒なまねされたくなかったら、さっさと博士を呼んで来い。」
「―――!しかし……、」
脅しつけられて受付の女性は息を飲み黙り込んでしまう。その様子に男はますます頬を歪めた。
「……ちっ、面倒くせぇな。」
気だるそうに呟く男の纏う空気が変わった瞬間、そこにいた誰もがやばい、と感じた。ゆっくりと手を掲げ何かをしようとする男に対し、脳内で警鐘が鳴る。このままでは、あの女性が危ない。そう思った時には、アイリの身体はすでに物陰から飛び出していた。ヴェルナーとカテラが制する声が聞こえた気がしたが、構わず男の背に抜き放ったサーベルを突き立てる。
ズブリ、と湿っぽい音がして、男の巨体に細身のサーベルが突き刺さった。肉を抉る感触がサーベルから伝わってきて顔をしかめる。致命傷には至らないが、動けぬほどの重傷だ。しかし、男は一切動揺する事も無く、ゆっくりと後ろを振り返り、背に刃を突き立てた者の正体を一瞥した。
「―――なんだ。女かよ。」
「!」
そのたった一言に、アイリの全身から血の気が引いた。サーベルを勢いよく引き抜き、本能的に男から距離を取る。
「随分、いいもの持ってるじゃねぇか、ああ?」
男は血に染まったアイリのサーベルを見つめながら、笑みを浮かべる。背を刺されたというのに、何故この男はこんなにも平然で笑っているのか、理解が出来ずにたちつくす。
兵士たちも突然の襲撃にすぐさま戦闘態勢を取った。一気に待合室に緊張が走る。だが、当のアイリは目の前に佇む男ばかりに神経を集中させてしまい、残りの兵たちまで構っている余裕などなかった。
彼の興味が受付の女性からこちらに逸れたのはいいのだが、得体のしれない圧にアイリはたじろいでしまう。おまけに周囲にはアイリを捕らえようとする兵たちが構えている。
―――どうする、このままでは。そう思った時、強力な水圧を放つ濁流の波が、アイリたちの元に押し寄せた。水場の無い待合室にとんでもない量の水が突如現れたのだ。水流は、恐ろしい勢いで、アイリの背後に控えていた兵たちを飲みこんだ。突然の出来事に兵たちは悲鳴を上げ、なす術もなく押し流される。水流はそのまま研究所の玄関を勢いよくぶち抜き、臨戦態勢に入っていた兵士を一人残らず吐きだした。
ポタポタと水が滴り落ちる待合室には、アイリと巨漢の男だけが残される。そこに、ゆっくりとした足取りで彼らの傍にやってくる小さな人影があった。
「……さすがは、記述術の権威とも呼ばれるお方だ。とんでもねぇ威力だな、パヴコヴィック博士。」
茶化すように笑う男だったが、その顔には一筋の汗が流れていた。
「お前たちほどではないよ。イザイア殿は息災かね?ランドルフ。」
兵たちを瞬く間に蚊帳の外に追い出したパヴコヴィックは、男―――ランドルフに向かって挑発的に笑いかけた。
第七章完




