第七章 記述術の権威(5)
「私はここ数年、軍の本部から執拗に協働の誘いを受けている。何故だかわかるか?」
その問いにアイリは押し黙ってしまった。その答えを述べたのは後方に控えたヴェルナーだった。
「……軍はあんたたちの記述術を軍事兵器に利用しようとしている。治癒術だけじゃない、兵術としての記述術を開発しようとしているんだ。」
「その通りだ。―――私は記述術が人を殺す術として利用される事を望まない。だから幾度となく軍の誘いを断ってきた。そしてこれからも、決して軍にこの手を差し伸べる事は無い。私は帝都には赴かない。」
それははっきりと告げられた宣告だった。アイリの胸に再び絶望が押し寄せる。息をすることも叶わず、アイリはただ身を縮める事しか出来ない。だが、そんなアイリに代わってヴェルナーはパヴコヴィックに静かな怒りを向けた。
「確かにあんたの言いたい事はわかる。軍が気に入らないってのも道理だと思う。……けどな、あんたらの力を今まさに必要としてる人間がいる、そのために頭下げてる奴が目の前にいる。そいつを見捨てるのか?そうまでして軍に関わらないって信条を守るのか?人を殺す術を生みだそうとしている軍と何が違うってんだ。」
ヴェルナーは吐き捨てるように言うと、パヴコヴィックを睨んだ。両者が鋭い双眸で睨みあっている中で、アイリの胸につっかえていた絶望が、不思議と和らいだ。そうだ、自分は一人ではない。ここまで一緒についてきてくれた者がいる。彼が、いるのだ。
どれくらいの時間が経っただろう。数分か、あるいは永遠に続くかと思われた長い沈黙の末、目の前に控えた少年はふっと笑った。
「……私の知人が帝都に住んでいる。彼女はここで記述術を学んだ、非正規の医師だ。」
「……えっ。」
「彼女に掛けあって、近衛師団の患者たちの診察を頼んでみよう。」
「……本当……ですか?」
信じられないという表情でアイリは、パヴコヴィックを見た。彼の瞳は先ほどの鋭い眼光ではない、少しおどけたものに変わっていた。
「そもそも、私は軍に手は貸さないとは言ったが、お嬢さんに協力しないとは一言も言ってない。」
「は……?なんだよそれ?」
凄んでいたヴェルナーもすっかり脱力して項垂れた。それを見て少年は可笑しそうに笑った。
「と言っても、彼女自身は潜りの医者だ。王宮に入る術は持ち合わせていない。その辺の事は、―――」
「もちろん!私が何とかします!」
アイリは力強く頷いた。軍が嫌いだというパヴコヴィックが譲歩してくれたのだ。何とかする、いや、何とかしなくてはならない。そう強く誓った。そんなアイリにヴェルナーが心配そうに問いかける。
「でも、大丈夫か。お前軍本部に追われている身だし。」
「あ、そうだった……。でも、そんな事言ってる場合じゃないわ。やらなきゃだめなのよ。」
「そうね、アイリ。私も出来る限り力になるわ。」
アイリの肩にカテラの温かい手が添えられた。あんな風に西の大陸から逃げてきて、帝都で自分たちがどのような立場に置かれているのかはわからない。でも大丈夫だ、この手の温かさがあれば、ここにいる皆がいれば、きっと大丈夫。
アイリたちが安堵の表情を見せる一方で、当のパヴコヴィックは難しい顔をした。
「しかし、その病とやら気になるな。本来「記述」の文章を書きかえる事は、この世界の誰にも出来ないというのに……。」
少年の呟きに、カテラも頷く。
「「記述」というのは決して不変のものではないのでしょう?もしかしたら、普通の病と同様に何らかの作用で、偶然「記述」が書き変わってしまったのやもしれませんよ。」
「なら良いがな。…もしこれが、人為的なものだったとしたら―――」
その言葉に、アイリの心臓がドキリとなる。もし、ソラトたちの病状が何者かの意図するものだったとしたら。思い出すのは、ヨドでのライムの言葉だ。病の事を知っていて、その上救援を求めたアイリを捕縛しようとした軍本部。もし彼らがこの一連の事件に関わっていたとしたら。嫌な想像を掻き立てられる中で、パヴコヴィックは小さく息をつくと立ち上がった。
「まあ、憶測でものを言っても仕方がない。ともかく、その件は私の方から連絡を送っておくとしよう。さて、他に何か質問はあるか?」
パヴコヴィックが、アイリたちを見渡す。すると、それまで黙っていたバズがスッと手を上げた。
「何かね?少年。」
「えっと……、あの……。」
何やら言い淀んでいるバズをアイリたちはじっと見つめていた。一体どうしたというのだろう。ヴェルナーも疑問に思ったようで、バズに問いかけた。
「どうした、バズ?」
「いや、大したことじゃないんだけど……、さっき博士が言ってた、「記述」の事で……。」
バズは決心がついたようにパヴコヴィックに向き合った。
「さっき、「記述」という物質そのものを強化出来るっていいましたよね。それってもしかして、「記述」を一つの生き物にする事も可能なんですか?」
「……つまり、「記述」に生命意識を宿らせる事が出来るか、という事かね?」
パヴコヴィックの問いかけに、バズはコクンと頷いた。その顔はなぜかものすごく真剣で、これまでアイリが見たことも無いようなバズの顔だった。
しばらくパヴコヴィックは考え込んでいたが、やがてバズの質問に答えた。
「理論上は可能だ。だが、我々の研究所でもその方法を解明できてはいないし、実証例も無い。世界的に見ても、まだ実現は不可能だろう。」
「―――そう、ですか。」
そう言って、バズは肩を落とした。心なしか、その姿はひどく動揺しているよう見える。
「……生命化について興味でもあるのかね?」
パヴコヴィックが再度問いただすと、バズは狼狽したように首を振った。
「ち、違うんです。ただ、なんとなく。そんなことも出来るのかなーってふと疑問に思って。それだけです、ありがとうございました。」
バズは努めて笑顔を見せたが、アイリはそれが取り繕った嘘であるという事はすぐに分かった。おそらくここにいた者全員がそれを見抜いていただろう。だが、それを追及する事も憚られた。
「……?まあ納得がいったのなら良い。玄関まで送ろうか。」
パヴコヴィックは立ち上がると、散らかった部屋を出口に向かって歩き出した。アイリたちもその後に続く。と、アイリはヴェルナーを呼びとめた。
「―――ありがとう。」
アイリは素直にヴェルナーにお礼を言った。パヴコヴィックに何一つ反論出来なかった自分の代わりにヴェルナーは怒ってくれた。きっと自分一人では一蹴されて終わりだったに違いない。ヴェルナーも謝礼の意味を汲み取ったのか、
「……別に、お互い様だろ。」
それだけ言ってさっさと歩いて行ってしまった。お互い様、という意味がいま一つわからなかったが、アイリは気を取り直すと彼らの後を追って出口へ向かう。その後ろでは、なぜか悲しそうな顔をしたバズが、アイリにも聞こえない程の小声でぽつりと呟いた。
「だったら……、お前は何者だったんだよ―――レイン。」




