第六章 誓い(6)
少年が物心ついた時、彼の隣には親がいなかった。雨風をしのぐ家も、寒さを和らげる衣服も、飢えを満たす食料も無かった。帝都の隅、城下町の更にはずれ、ゴミと悪臭の吹き溜まりとなった狭い路地裏。それが少年が生まれて初めてみた景色だった。薄暗く湿った空気が充満する世界、息をする者は皆生気を失い、地面に転がる死体と同じ目をしている。
生きる術を知らず、言葉も持たず、自身の名前すら知らない赤子の少年は、ただそこで誰知らず死を迎えるだけだったのかもしれない。だが、その少年は幼いながらも本能で生き延びるために全力を尽くした。
ゴミをあさり食料を探した。食べられない物の区別は本能と経験で学んだ。やがて知識がついてくると、表通りに並んでいる商品を盗むようにもなった。盗みに慣れてくると店の商品だけではなく、通行人の財布や武器も奪った。
眠るときは落ちていた襤褸布に身体を包みこんで眠った。寒い冬は民家の花壇に忍び込み、その土の上で眠る。窓の向うでは、少年と同じ年齢の子供が、父親と母親と共に温かな料理を囲んでいる。明るい部屋、温かな家族、穏やかな談笑、そのどれもが少年にとっては果てしなく遠い世界のものだった。
ある時、少年はいつものように通行人から金を盗んだ。しかし、今回はその相手が悪かった。どうもその辺り一帯を武力で締めている組織の幹部で、そうとも知らず無体を犯した薄汚い少年は、あっという間に組織に捕らえられた。暗い路地裏で殴る蹴るの暴行を加えられ、ああ、自分はとうとう死ぬのかな、などと考え始めた時、その救世主が現れたのだ。
男は目にもとまらぬ速さで組織の連中を一蹴すると、ぐったりとしている少年を抱えて歩きだした。この男は何者だろう、自分をどこに連れていく気だろう、朦朧とする意識の中でそればかりがぐるぐると回り、やがて身体に限界が来たのか少年は意識を手放した。
目が覚めて、まず最初に天井が見えた。どこの天井だろうと、意識を研ぎ澄ませていると、自分の身体がとても温かいもので包まれている事に気付いた。視線を下げると真っ白で厚みのある布が見えた。これは、布団だ。改めて見回すと自分はどうやらどこかの家のベッドに寝かされていたようだ。起き上がろうとすると身体が軋んで激痛が走り、思わず悲鳴を上げる。
まだ起きない方がいいぞ、とふいに隣の部屋から顔が覗いた。先ほど薄れゆく意識の中で見た男だ。自分を助けてくれたのだろうか、それとも他に何か目的があるのだろうか。真意をはかりかね、警戒心むき出しで男を睨みつけていると、男は可笑しそうに口元を歪ませた。
まあ飲めよ、と少年にコップを手渡す。おずおずと受け取ると、中に真っ白な液体が入っているのが見えた。飲んでいいものか逡巡していると、男が頭上で軽快に笑いだした。ただのミルクだよ、と男は手にしていた同じような器に口を付ける。まあ飲んでみろ、と勧められて男のしぐさを真似して恐る恐る口を付けた。
温かく優しい甘さが口いっぱいに広がった。こんなものは今まで一度も飲んだことが無い。もう一度器から、今度は思いっきり喉に流し込む。熱さで喉が焼けそうになって思わず咳き込んだ。その様子を見てまた男が笑う。その笑顔が眩しくて、いつの日にか見た窓の向うの家族のような温かさを思い出した。飲み物がおいしかったからか、その温かさに触れたせいなのか、手の中の飲み物を全て飲みほした頃には、少年はボロボロと涙を流していた。
男はサイフォス=ライトロウと名乗った。少年も名前を訊かれたが答えられない、自分には名前が無いのだ。名前が無いのは予想外だったのか、うーんとしばらく唸っていると、それならばと、サイフォスは少年に名を与えた。
ヴェルナー、というのはどうか。
サイフォスに告げられて、その名を何度もつぶやいた。何でも古い言葉で英雄の名を意味するらしい。どうだ、と尋ねるサイフォスに少年―――ヴェルナーはコクリと頷いた。
それからしばらくの間、ヴェルナーはサイフォスの元で暮らした。サイフォスはヴェルナーに様々な事を教えてくれた。読み書きから計算、一般常識など生きていく上で必要な事をヴェルナーは学んだ。時には、体術やナイフなどの武器の使い方まで伝授してもらった。初めて出会った時も思ったが、サイフォスはかなり腕の立つ男だった。何故そんなに強いのかと問うと、それが俺の本職だからと返された。サイフォスは時々家を開けてどこかへ出かけていたが、何をしているかまではヴェルナーは知らない。さらに詳しく聞いてよいものか迷っていると、サイフォスから答えが返ってきた。
俺は軍人なんだ。サイフォスはそう言った。軍人とはつまり国のために戦い、この地と民を守ること。そのために自分の命を捧げ、時には誰かの命を奪う。そう語るサイフォスをヴェルナーはじっと見つめていた。誇らしげに語るサイフォスはなんだかとても眩しかったが、そうはいっても、現実は無情な殺し合いや腹の探り合いばかりだがな、と冗談交じりにサイフォスが笑うと、ヴェルナーもなんだよそれ、と頬を膨らませた。
だが、サイフォスは再び真剣な表情をすると、ヴェルナーに向き直った。俺は軍人になって良かったと思っている。どんな形であれ、俺は大切なものを守る力を手に入れたんだ。そう語るサイフォスの目は、どこまでもまっすぐだ。そしてヴェルナーに語る。
ヴェルナー、お前も強い男になれ。いつか大切なものを守れるように。後悔しないように。
そう言ってヴェルナーの頭を撫でてくれたサイフォス。彼がヴェルナーの前から姿を消したのは、その二日後の事だった。
◆
「俺が軍に入ったのも、近衛師団の入隊を断ったのも、サイフォスを探すためだ。そして、今こうして軍人として立っているのも、サイフォスと約束した、『大切なものを守れる強い男』になるためだ。ゴミ同然だった俺が一人の人間になれた、その恩に報いるためだ。」
訥々と語るヴェルナーの横でアイリはただ黙っていた。
「これが、俺が軍人になった理由と俺の望み。つまんねぇ話だろ?」
「……ううん。話してくれてありがとう。」
たとえヴェルナーの経緯がわかったとしても、彼女が虐げられていた事実は消えない。しかし、どこか晴れやかな顔をしたアイリは、まっすぐにヴェルナーを見据え、お礼を言った。
日が沈みかけた甲板では、少し肌寒い風が頬を撫でる。しばらくの間、二人はその風を穏やかに受けていた。
「お前は、大陸に着いたらどうする?仲間に託された事があるんだろ。」
「ええ、ソラトたちの病を治すためにも、研究所へ行かなきゃ。」
近衛師団に起こった謎の異変、その原因を確かめるべく旅だったアイリ。もし軍がそれを止めるためにライムたちを差し向けたのだとしたら、必ず、アイリの求めている答えがそこにあるはずだ。
「記述術研究所は、港町キルシュから北に向かったところにあるわ。軍からは独立した純粋に学術としての記述術を研究する所よ。そこにいる、マルス=パヴコヴィックという記述術の権威とも呼ばれる人がいるの。」
アイリは強い意思で語る。
「その人なら、おそらくソラトたち―――近衛師団の皆を苦しめている病の原因がわかるはずだわ。」
「港町より北の研究所か。了解。着いたらまずはそこを目指すか。」
「付いてきてくれるの?」
意外そうな顔で、アイリはヴェルナーに向き直った。ヴェルナーも少しいたずらっぽく笑う。
「ここまで来たら、乗りかかった船だしなぁ。どうせカテラさんも気になるだろうし、なら俺たちも付いていくさ。―――それに、俺は強くて仲間思いで、軍人として尊敬出来るいい男なんだろ?」
「―――!」
突如、アイリの顔が真っ赤に染まり、わなわなと震えだした。その様子を見て、ヴェルナーは満足そうに続ける。
「そこまで言われちゃあ、俺だって期待に応えないわけにはいかねぇよな?」
「あっ、あれは違うわよ!あの時はちょっと腹が立ってて――、第一、『ビルと比較して』って意味だから!」
ライムは憎らしい男とはいえ、仮にも自分の婚約者だというのに、それと比較して良い、とは、かなりの高ランクに当たると思うのだが、その辺りはアイリ自身もわかっていないらしい。ひたすら早口で言い訳をするアイリが、なんだか可笑しくて堪らず吹き出してしまった。
「ちょっと!なんで笑うのよ!?」
「いや…、もう…お前本当面白いわ。」
まだ納得がいかない様子のアイリに、ヴェルナーは自分の拳を突き出す。突然目の前に差し出されたヴェルナーの手を、アイリはじっと見つめた。
「何これ?」
「信頼の証って奴だよ、ほれ、お前も手出せ。」
訳がわからないまま、拳の形に突き出したアイリの手に、ヴェルナーは自分の拳をコツンとぶつけた。
「頼りにしてるぜ、これからもよろしくなアイリ。」
そう言って、笑顔を向けると、アイリもまた同じように笑みを返す。
夕暮れの海を背に、二人は確かに笑い合う。船は、ゆっくりと、だが着実に東の大陸へと近づいていた。
第六章完。
話の内容的にもここで一端一区切りです。
ちょうど三十話目。
全体としては、起承転結の「起」がやっと終わった…という所ですが、引き続き頑張りたいと思います。
次回からは東の大陸編。




