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第六章 誓い(5)

 夜に沈んだヨドの港で、荒々しい怒声が響き渡った。


「いいから早く船を出せ!罪人をみすみす逃がすわけにはいかん!」


 声を張り上げ乱心しているのは、帝都からの派遣兵、ビルト=ライムであった。つい一刻前、目の前で婚約者であり今回の捕縛対象であったアイリと、その同行者のヴェルナーに逃げられ、プライドをズタズタに引き裂かれたライムは、ヨドの兵士に怒鳴り散らし、失態の穴埋めをしようと躍起になっていた。


「申し訳ありませんが、ライム大尉。ヨド港からの船の出港には、事務局の手続きが必要となります。それは軍艦とて例外ではありません。」


 錯乱するライムとは対照的にひどく落ち着いた様子で語る男は、このヨドの駐屯兵をまとめる団長だ。本来なら牢に入れていた罪人を逃がしたというとんでもない失態を犯したはずなのだが、そんなことは我関せず、といった様子で平然と佇んでいる。


「ならば、さっさとその手続きを済ませてこい。」

「事務局はこの時間営業しておりません。明日の朝までお待ちください。」


 淡々と述べる団長の背後で、駐屯兵たちがクスクスと笑い声を洩らす。その何もかもが、ライムの神経を逆なでし、たまらず目の前の団長に掴みかかった。


「そもそも、これは貴様たちヨド兵が罪人どもの脱獄を許した事が原因ではないのか!」

「申し訳ありません。随分狡猾な輩だったようで。」


 悪びれる風もなく答える団長の首元をさらに締め上げる。


「貴様……、命令違反で部下共々上層部に告発してもよいのだぞ。」

「どうぞご自由に。ただし報告は正確にお願いしますよ。脱獄した凶悪犯が、あろうことかあなたの目の前で、重要参考人を連れ去って逃げた、というところまで。」


 その瞬間、ライムの顔が熟れた果実のように真っ赤に染まった。背後で一際大きな笑い声が起きる。ライムは乱暴に団長を掴んでいた腕を放すと、ヨド兵たちにとっとと下がるよう命令した。後にはライム一人が残される。


「くそっ、アイリの奴。俺を馬鹿にして、くそっ!」


 八つ当たりに、近くの空き箱を蹴っ飛ばす。すると、その物陰からゆらりと影が現れた。


「おやおや、ご機嫌斜めですね。」


 のんびりと言葉を発したのは、ローブを纏ったあの髪の長い男だ。にやりと気味の悪い笑みを浮かべると、ライムをじっとりと見据えてくる。


「こんなところまで監視ですか。全く仕事熱心ですな。」


 やや皮肉めいた口調で言ってやるが、この男には全く通用しない。


「いやいや、私はあなたを労わりに来ただけですよ。婚約者殿を攫われて、さぞや御傷心でしょうからね。」

「……大きなお世話だ。」


 吐き捨てるように言うと、男はふとこんなことを問うてきた。


「私も見ていましたよ。婚約者殿を掻っ攫うあの男。悪魔のようないでたちでした。」


 それを聞いた途端、ライムの脳裏にあの忌々しい男の顔がよみがえってきた。


「……ヴェルナー=ライトロウ!」


 ライムは苦々しげにその名を呼ぶ。卑しい出自でありながら、ライムを出し抜きその顔に泥を塗った男。ライムはこの男を自分にとって最大の敵として認定した。今度会うときは容赦はしない、そう心に固く誓った。そしてその雄々しい決意を胸に、ライムは駐屯地へと歩き出した。


 その禍々しい背を見送りつつ、ローブの男はその場に立ち尽くしていた。男の顔には、幾ばくかの驚きと焦燥が刻まれていたのをライムは知らない。


「……ヴェルナー=ライトロウ?ライトロウですか、いや、まさか。」


 男はポツリとライムが吐き捨てた名を復唱する。


「まさか……、あの男の血縁者か……、いや、しかし、それなら辻褄が合う。」


 やがて、納得したように顔を上げた男の瞳は、これ以上ないほどに見開かれていた。


「なるほど、まだ我々を邪魔立てする気ですか、サイフォス。ならば、こちらもそのつもりで手を打ちましょうか。」


 男は誰にともなく呟くと、再び元いた闇の世界へと消えていった。


 ◆

 船は東の大陸に向けてゆっくりと歩を進めている。すぐに船を出す事が出来ないせいか、ヨドからの追手もやってこない。割り当てられた船室で身体を休めていたヴェルナーは、重い瞼を開け、身体を起こした。夜中にヨド港を出発してから半日以上が過ぎた。そういえば、ここ三日間碌に寝ていなかった気がする。半日以上泥のように眠り続けたヴェルナーの瞳に窓から入り込んだオレンジの夕日が差し込んだ。


 備え付けのベッドから降りると、軽く体をほぐして外に出た。この船は、本来旅客船ではなく、個人経営の商船でヴェルナーたち以外に乗っているのは、船長含めても十人に満たない程度の船員のみだった。ヨドからキルシュまでの航路で主に商売をしているそうで、この辺りの航路は比較的穏やかなので、いつもちょうど三日後の早朝に到着できる夜中に出港しているのだそうだ。


 飛び入りで乗船を頼み込んだ、しかも軍に追われている訳ありのヴェルナーたちだったが、船長は予想以上に懐の大きい人間だったらしい。


「困った時はお互いさまだろ、それに万が一海賊にでも襲われたら助けてくりゃいい。」


 というわけで、護衛の面も含めて、ヴェルナーたちを歓迎した。勿論それなりの乗船料は取られたが。商売気質の人間は何とも逞しいな、とヴェルナーは逆に感嘆した。


 外の空気を吸いに甲板に上がると、そこに夕空の海を一人眺める、アイリの姿があった。アイリはこちらに気づくと、少し驚いた様な顔をして、また海の方に向いた。


「お前も散歩か。」

「まぁね。」


 素っ気なく返すアイリの横に立つと、彼女と同じように海を眺める。潮風が目を刺激するが、夕日にきらめいた果てなく続く海は幻想的で、目を奪われた。しばらくどちらとも何も言わず、黙って海を眺めていた。だがふいに、アイリが消え入りそうな声で呟いた。


「ごめんなさい。」


 それは何に対しての謝罪か。そういえば、ゼノでの口論以来まともに会話していなかった。


「ゼノで、あなたの事見下したような発言をした事。」

「ああ……。」

「本心で言ったわけじゃないの。あの時は気が動転してたというか、頭に血が上ってたというか……、ごめんなさい、信じて。」


 アイリは頭を下げて許しを乞う。思い詰めたような声に、ヴェルナーもいたたまれなくなってしまう。


「気にしてない。それにお前が近衛師団の事で辛い思いしてたのは本当だろ?俺は自分の身勝手な理由でお前を振り回した、怒りたくなるのも当然だ。」


 そんなことない、と首を振るアイリに、ヴェルナーは静かに告げた。


「俺が貧民街出身だってことはあの男から聞いたよな。」

「うん、というか、ビルとの会話聞いてたのね。」


 あの時、ガラス越しに聞こえてきた、アイリとライムの会話。まさか自分が話題に上るとは思いもよらなかったが、その一部始終をヴェルナーは聞いていた。


「俺は餓鬼の頃、親もいなければ住む家も無い、ゴミ同然の場所で育った。あいつの言うとおり、人間らしい生活なんか送っちゃいなかった。」

「そんな……。」

「でも、そんな俺を救ってくれた人がいた。その人こそが、俺の人生を変えた恩師であり、そして俺が軍人となった理由だ。」


 そう言うと、ヴェルナーは夕暮れの海の元、アイリにその経緯を語った。

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