第四章 風に舞って(1)
夜の町をバズは一人で歩いていた。ヨドにほど近いゼノの町は、運河を利用した交易も盛んであるため、街道を通る旅人以外にもたくさんの人々が集まってくる。各地の交易者が夜まで酒を酌み交わし、仲間内で明日の商談の打ち合わせをしている。雑多な会話と笑い声がそこかしこから聞こえてくる。なんとなく、バズの故郷グリアモを思い出させた。あの故郷が恋しくならないといえば嘘になるが、この慣れ親しんだ空気にバズはむしろ心躍らせていた。
本当はすぐに酒場にでも入ろうかと思っていたが、どうせならもう少しこの町の外観を見ておきたい。そう思い立って、バズは大通りを弾んだ足取りで歩きだす。しばらくすると、幅にして馬車三つ分はあろうかという巨大な橋が見えてきた。橋の下を船が通過できるよう巨大なアーチ型になっており、歩行者用の階段と馬車用のスロープが備え付けてあった。中央の最も高くなっている所は、広めの踊り場があり、土産物や食べ物を売る屋台が立ち並んでいる。今の時間は営業していないようで、シートの掛けられた屋台には人影は見当たらなかった。運河に架かった橋を渡ると、向こうにはまた異なる色合いを持った商業施設が見えてくる。河を隔てて二分された町、というのもグリアモを思い出させて、また少し嬉しくなった。
せっかくなので、向こうの方にも行ってみようか、とバズは橋の階段に足を掛ける。石煉瓦で頑丈に作られた橋は思いのほか長く、結構足にくるな、と内心舌を巻いた。橋の下から運河の流水音がさらさらと響いて来る。橋の中央では街のにぎわいも少し遠くに聞こえるため、やけにその河音が耳に残った。
潮の香りが心地いい。やっぱりヴェルナーも連れてくれば良かったと後悔した。宿屋で寝転がっていたヴェルナーはなんだか思い悩んでいたようだった。単に疲れていただけかもしれないが、その理由をバズはなんとなく察している。
バルドに旅に出ろと言い渡された時、バズの頭の中は、バルドへの反抗心と怒り、そして絶望でいっぱいだった。そしてその後に襲ってきたのは、言いようのない恐怖だ。見捨てられるかもしれない、もうみんなの傍に居られないかもしれない。そんな恐怖のどん底に沈んだバズをすくい上げ、背中を押してくれたのは、他でもないヴェルナーだった。
―――お前がいてくれると心強いし、何より楽しい。
そう言ってくれたことが、バズにとってどれだけ救いになったか、おそらくヴェルナー自身は知るまい。だからこそ、バズはこの旅でヴェルナーだけでなく、沢山の人を笑顔にできる存在になろうと決意した。『バルドグロック』の次期当主として、ヴェルナーたちの期待に応えたいと思うのだ。今、ヴェルナーは難しい顔をして思い悩んでいる。そしてそれ以上に思い詰めていたのは、他でもないアイリだった。明らかに態度を豹変させたアイリ。しかし出会ってまだ一日とたたないバズは、彼女が何で悩んでいるのか見当もつかない。だが、バズはアイリが心やさしい人間であることは十二分にわかっていた。だから二人が気まずそうにしているのを見るのは、辛いものがある。二人の力になりたい。せめて、バズの旧知の友であるヴェルナーだけでも、何か自分に出来ることがあるのではと、この町に着いてからずっと考えていた。
「やっぱり無理やりにでも、気分転換させてやった方がよかったのかもしれない」
独り言を呟きながら、一段一段階段を上っていく。橋の頂点に差し掛かった時、ふとその隅に人影が映った。屋台は皆閉まっているから、バズと同じように夜風に辺りに来た宿屋の客だろうか。橋の手摺に手をついてじっと下方の運河を覗いている。なんとなく動向が気になって、踊り場を通り過ぎつつ横目でその影を追う。影はゆっくりと体を傾け半身を橋の外に突き出し、食い入るように下を見つめ、体が浮くのも構わず、身を乗り出し―――落ちた。
「はぁ!?」
ぼんやりと眺めていたバズは思わず我に返った。一拍遅れて、バシャンと何かが水に落ちた音が聞こえた。慌てて橋の縁に駆け寄ると、運河のど真ん中で小さな人影がバシャバシャと水の上でもがいていた。バズは近くの屋台を見まわし、積み荷用のロープと木の板を発見すると、手早く片側を手摺に結び、もう片方に木の板を結びつけ運河に放った。
「それにつかまれ!」
バズが声を張り上げて人影に呼び掛けると、流れに身を取られながらもなんとか木の板につかまった。ピンと張ったロープをほどけないように握力を込めて掴む。バズは細身だが決して非力ではない。だが、橋の上からずぶ濡れになった人間一人をロープで引き上げるというのはなかなかの重労働だ。果たして自分一人の力で足りるだろうかと、不安がよぎったが、意を決してロープを引き上げた。
思いのほか、ロープはすんなりと上がってきた。掴まっている人間が橋にぶつかって怪我しないよう、慎重に手繰り寄せる。手摺の向こうからロープをしっかり握りしめる腕が見え、慌ててその腕をつかんだ。
―――あれ?
想像以上に華奢な腕にバズは一瞬目を見開く。そしてその腕を一気に引くと、その腕の持ち主の上半身が姿を見せた。
橋の手摺から現れたのは、バズより幾らか年下の女の子だった。腰まで伸びる豊かな髪は水を含み、顔にべったりと張り付いている。暗闇でよく見えないが、その肌は薄いキャラメルを思わせる褐色だった。少女は腹部を橋の手摺に乗り上げ、物干し竿に干された布団よろしく体をくの字に折り曲げると、苦しそうにせき込んだ。息を吸う度に、大きく露出した肩が細かく震えている。
「ええと……、大丈夫?」
とりあえず橋に下ろしてあげた方がいいだろう、とバズはもう一度少女の手をとると、ガバッと少女の顔が上がった。その勢いに思わずのけぞる。
「ありがとうっ!命の恩人さん!―――って、きゃ!?」
急に上半身を起こしたせいで、再び少女の体が運河に落ちかけた。とっさに掴んでいた両腕を思い切り引っ張り上げる。勢いをつけすぎたせいで、バズもろとも後ろに倒れ込んだ。
「いてて……」
石畳で背中を強かに打ちつけたバズは、何かが腹部にのしかかる重みも相まって思うように息ができない。
「ごっ、ごめんなさい……!大丈夫ですか?」
顔の少し上から声がする。そっと閉じていた目を開いてみると、―――美しく澄んだ碧い瞳がこちらを覗きこんでいた。
しばらくその大きい宝石のような輝きに目を奪われていたが、やがて自分と少女の今の体勢を思い出し、慌てて身を引いた。
バズの体の上に馬乗りになった状態で倒れこんでいた少女は、全身ぐっしょりと濡れ寒さで肩を震わせていた。ノースリーブの薄手の胴衣に前の大きく開いたスカートは水を吸い、髪と共に少女に張り付いて、そのなだらかな肢体を浮き彫りにしている。潮の香りに混じって、女性特有の甘い花のような香りが漂ってきて、バズの心臓は独りでに跳ねた。
「とっ、とりあえず、降りてくれないかな…」
妙に扇情的なその姿に、なんだか見てはいけないものまで見えてしまう気がして、頭を少女の方から背け小さな声で懇願した。
「あっ!ごめんなさい」
少女もようやく今の状態に気付いたのか、慌ててバズの上から体を起こす。両者ともお互いにかける言葉が見つからず、気まずい沈黙が流れていくが、
「くしゅん!」
少女が肩を震わせ小さくくしゃみをした。運河に落ちてすっかり冷えてしまった体に夜風は毒だ。バズは慌てて自分の着ていた上着を少女に掛けてやると、少女に問いかけた。
「とりあえずどこか温まるところに入ろう。君は旅の人?どこかに宿屋は?」
「ええと、通りの向こうに」
少女はバズが橋を渡って来た方とは反対の方向を指さした。
「よかったら、あなたも来て。恩人さんにお礼がしたいし」
少女は立ち上がると、にこりと微笑みかけバズを手招きした。




