第二十六章 王の願い、語られる頃(11)
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皇帝が去ってからも、ヴェルナーはそこを動く事が出来なかった。皇帝は今大広間でモーゼンテルの一件について言及しているだろうか?きっとドメルトも探している。肝心な時にいなくなって、後で大目玉を食らう事になりそうだ。或いは、一足先に皇帝と密談を交わしていたと言ったら―――、それもきっと怒られそうだ。
そうとわかっていても動く事が出来なかった。先刻まで強大な君臨者と言葉を交わしていた事が夢の様で、ヴェルナーの思考は全く機能していないのだ。
皇帝はモーゼンテルの事件についてひどく心を痛めていた。皇帝と言う存在はもう必要ない事と自ら発言した。
けれど、皇帝は何かもっと別の不安を抱えていたような気がしてならないのだ。
オルセンの民全ての未来を奪う事―――、皇帝が玉座を降りる事が何故人々の未来を奪う事に繋がるのか。
王がいなくなる事で国が一時的にでも混乱すると言いたかったのだろうか?―――いや、おそらくそうではない。あの時、それを告げた皇帝の表情はひどく安堵したような、絶望から解き放たれたような顔をしていたから。
湿気を帯びた風がヴェルナーの肌を撫でた。月明かりで群青色に染まった正面の庭の草木がざわざわと揺れる。夜も更け始めた、静かな夜だ。
「……戻るか」
辺りにはヴェルナー以外見当たらず、バルコニーに出ていた客は皆、室内へと吸い込まれていった。これ以上ここにいても仕方がない、ヴェルナーは重い腰を上げて上官を探しに向かった。ホールへと続く扉を開けようとした時、その扉が勢いよく開かれヴェルナーは反射的に避けたが、扉の向こうから弾丸の様に飛び出してきた小さな影にぶつかった。影はヴェルナーの胸に思い切りぶつかって小さな悲鳴を上げ後ろに倒れ込みかけたので、慌ててその身体を支える。間一髪で転倒を免れたその小さな影は、
「……っ、すみません」
「いえ、こちらこそぼうっとしてて―――」
言いかけて声が出なくなった。腕の中に倒れ込んだ、華奢な女の顔が見えて、幻影でも見えているのかと思ってしまった。女の方もこちらに気づく。大きく見開かれた栗色の瞳が、それが幻影などではなく本物であるという何よりの証だった。
「……ヴェルナー」
「アイリ……なんでここに…」
何故ここにいるのかと思ったがそれは愚問だろう。ここは貴族や有力者が大勢集まる場所、アイリがここにいる事はヴェルナーがここにいる事よりずっと自然だ。ヴェルナーはしばらく茫然とアイリの身体を抱え込んでいたが、アイリはすぐ我に帰り弾かれた様にヴェルナーの身体を突き飛ばして踵を返して逃げ出した。ヴェルナーは条件反射で彼女を追う。動きにくいドレスに身を包んだアイリは簡単に捕まえられた。
「ちょっと待て!何で逃げるんだよ!?」
「逃げてないわよ!」
「逃げてるじゃねぇか!!」
握られた手首を必死に振りほどこうとするアイリ、ヴェルナは一層むきになって逃げるアイリを追いかけた。しばらくの間、一進一退の攻防が繰り返されるが、はたから見れば取っ組み合いの喧嘩にしか見えない。
「何で捕まえようとするのよ!」
「お前が逃げるからだ!」
「…っ……!!」
途端に目の前のアイリの頭が勢いよく前に傾いた。両腕をヴェルナーに拘束されたアイリは最後のあがきとばかりに、思い切り頭突きを喰らわせた。不幸にも鼻っ面に見事打撃が入りヴェルナーはたまらず、後退しひざを折る。痛みと怒りで呻きながら、ヴェルナーは目の前に佇む頭突きを喰らわせた凶暴女を睨み付けた。
「お前それでも貴族の令嬢か!?頭突きくらわすお嬢様なんて聞いたことないぞ!?」
「う、うるさいわね!正当防衛よ、正当防衛!…………ごめん、大丈夫?」
怒りに満ちたアイリの顔は見る見るうちに羞恥で真っ赤になり、うずくまったヴェルナーに手を差し伸べた。まあ、ヴェルナーの方とて無理やり捕まえようとしたのだがら、お互い様と言えなくもない。言えなくもないが、やはり腑に落ちないので仕返しとばかりに、伸ばされたアイリの手を思い切り引っ張ってやった。
アイリは悲鳴を上げ、ドレスのまま、ヴェルナーのすぐ横に倒れこんだ。ヒールでバランスが取れなかったせいか、何とも無様な姿で地面に倒れこむ。
「何するのよ!馬鹿!!」
せっかくしおらしくなったはずのアイリは再び、涙目になって目の前で意地悪そうに笑みを浮かべる陰険野郎を睨み付けてやった。
「思ったより元気そうだな」
最後に見たアイリの取り乱した姿を思い浮かべてヴェルナーは告げる。あの時は我を忘れたように泣きつかれたからヴェルナーも正直どうしていいかわからなかった。とっさに頭突きを喰らわせるくらいには、彼女は相変わらず彼女らしい。逃げる事を諦めたアイリは、ドレスが汚れるのも構わず、ヴェルナーの隣に膝を抱えて座り込んだ。
「…最悪よ、こんな所で会うなんて」
「こんな所では同意だ、俺は最悪じゃないけど」
「なんでいるのよ、皇帝の演説聞かなくていいの?」
「さっき会ったからもういい」
「ふぅん、そう―――えっ」
アイリが馬鹿みたいに素っ頓狂な声を上げた。
「会ったって…皇帝と話したの!?嘘!?」
「嘘じゃない、さっきまで陛下がここにいた。モーゼンテルの騒動の話をした。それから、未来のオルセンの事も。…後は、この世界の事も」
二人はポツリポツリと言葉を交わす。
静かな夜だ。月明かりで青白んでいる大理石の壁や床が、シンと冷たくなっている。
「…そう言えば、」
沈黙を破ってヴェルナーが切り出した。
「モーゼンテルで起こった暴動の事、お前夢で予知したらしいな。…また例の夢か?」
「どうして知ってるの?」
「俺も暴動が起こった時モーゼンテルにいた。居合わせた博士が教えてくれた。……身体、大丈夫なのか?」
アイリは答えない。ただ俯いて目を反らすだけだ。俯いたその頬は月明かりで青白く光っている。先ほどの焦っていた様子と言い、なんだか少し様子がおかしい。
「…平気よ。記述師のお医者様に診てもらったから。夢については詳しくわからなかったけど、少し疲れてるだけだわ」
嘘だ。ヴェルナーはすぐに思った。
「ライムには言ったのか?」
「……ううん、言ってない」
やはり彼女は今幸せではないのかもしれない。ここまで追い詰められている彼女を支えてくれるはずの婚約者は今、この場に影すら現さない。彼女を支えるものは何もない。
ヴェローニカの言葉が再び頭をよぎる。それを薪としヴェルナーの中に生まれてきたのは何だ。沸々と煮えたぎるこれは、何だ?




