第三章 名誉首席(1)
帝都トランベルの最北端、背後に山岳を背負い荘重な姿を城下に顕すトランベル城には、現皇帝第二十四代デモルト三世とその家族が暮らす王宮を中心に、縁戚と廷臣が居を構える居住区、そして彼らに仕える使用人やその他の王宮関係者が暮らす寄宿地区が存在する。
アイリが所属する近衛師団は、この寄宿地区にある近衛兵舎に常駐している。王宮からさほど離れてはおらず、有事の際には迅速に駆け付ける事が出来る。その近衛兵舎の長い廊下をアイリは無我夢中で走っていた。
外は東の方からオレンジの明りが差し込んでおり、一日の始まりを告げようとしていた。団員の多くはまだ眠りについており、人の気配は無い。しんと静まり返っていた廊下に、アイリの靴の音と、切れがちの息遣いだけが響いている。乱れた髪も構わず、一心不乱にある部屋を目指していた。やがて、ある扉の前で足を止めると、アイリはノックもそこそこに部屋に飛び込んだ。
「ソラト!ソラト!大丈夫!?」
空気の乾いた部屋には誰もいないように見えた。しかし、よく見ると部屋の角に備え付けてあったベッドが盛り上がっている。突然の来訪者に布団にくるまっていた人物がゆっくりと首をもたげた。
「アイ……リ」
力なく声を発したのは、アイリと同年代の女性だった。女性が起き上がろうとするのをアイリは慌てて制止する。
「寝ていていいわ。ソラト、酷い顔じゃない……!一体どうして……」
ソラトと呼ばれた女性は、げっそりと痩せこけ、本来は美しいプラチナブロンドの髪も一切の光沢を失っていた。寝巻から覗く細い手足は骨と皮だけのようで、その白い肌は暗がりの中で薄気味悪いほど浮かび上がっていた。
「大丈夫よ……、お医者様に診てもらったけど、少し身体が弱っているだけで命に別状は無いって……」
「そんな……、全然大丈夫に見えないわ」
ソラトは本来ならば輝くような美貌を持つ女性だが、今は見る影もない。力無い笑みに、アイリは涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
アイリがこの友人の不調を聞いたのは、つい先ほどの事だ。ここ二週間ほど、軍の遠征訓練に近衛兵の代表として参加していたアイリは、長旅を終え今しがたここへ戻ってきた。ところが明け方であっても出迎える、と言ってくれたはずのソラトの姿がそこになく、近くの同僚に話を聞くと、ソラトは数日前から原因不明の病で伏せっているとのことだった。ソラトだけではない、アイリが留守をしていたここ二週間の間に、近衛兵の何人かが同じような病で、動けなくなっているそうなのだ。
「私だけじゃないの……、副団長や、ミリネス中佐、他にも同僚がたくさん、同じような症状で伏せっているわ」
「どうして……、そんなことが……、原因は?心当たりないの?」
ダメもとで尋ねてみても、ソラトは虚しく首を横に振った。しかし、ふとソラトはアイリの袖口をギュッと掴んできた。
「でも……、おかしいのよ、アイリ……」
「おかしい?何がおかしいの?」
「原因不明の病で、たくさんの兵が倒れたわ……。でも被害に遭っているのは私たち近衛兵だけみたいなの」
その事実にアイリは目を見開く。兵の中で発祥した疫病のようなものかと思ったが、それならば、近衛兵と普段頻繁に接する王宮内の廷臣や使用人たちにも、発症する者が現れてもおかしくないはずだ。
「それに……、もし疫病だとしたら、私たちを未だにここに置いておくのはおかしいわ……。せめて陛下の御前から離れた所へ隔離するはずだもの……。なのに王宮の人間はそれをしない……。それどころか……、まるで私たちの病気に気づいてないような振る舞いをしているの……。おそらく、王宮の外の市民にも知らされてはいないわ……」
「なんですって!?」
これだけの症状が現れている人間がいるのに、それを無視しているというのか。しかもそれを市民に知らせていない。明らかに異常だ。
「ねぇアイリ。一体どういう事なの……、私、何の病気なの?命に別状は無いって本当なの?」
途端に、ソラトの瞳から大粒の涙が溢れだした。ソラトの口から、アイリでは答えられない質問が堰を切ったようにこぼれだす。返答を求めているのではない、ソラトの中で今まで吐き出せずにいた不安が、友に再会した事で瓦解し堪え切れなくなったのだ。
「私どうなっちゃうの……、いやよ……私、死にたくない……!」
その不安を拭い去る方法がわからず、アイリはただやせ細った手を握り締めることしか出来なかった。
◆
ふっ、と温かな光が瞼を刺激した。アイリはゆっくりと意識を覚醒させる。気づくとそこは、馬車の中だった。狭いシートだが思いのほかクッションの座り心地が良くて、つい眠りに落ちていた。周りを見回すと、アイリ以外の姿が見えない。そういえば馬車も止まっていた。皆どこに行ったのだろう、と起きぬけの頭で考えていると、馬車の扉が開いた。
「なんだ、起きてたのか」
顔を出したのは銀髪の男だった。出発前に散々言い争いをしていた男、名をヴェルナーといったか。
「飯出来たから、降りてこい。早く来ないとバズが全部食っちまうぞ」
どうやら、昼食に呼びに来たらしい。アイリは慌てて腰を上げて、ヴェルナーの後を追う。
外に出ると、やや離れた場所にあった岩陰で、眼帯の少年――バズと母親のカテラが昼食をよそっていた。
「……起こしてくれればよかったのに」
なんだか、自分一人手伝いもしないで食にありつくのが、少し気恥ずかしくなって恨めしげに呟いた。
「随分ぐっすりと眠ってたからな。馬上の旅で疲れてたんだろ」
昨日の一件もあるし、と最後はやや皮肉げに洩らしたので、またヴェルナーをにらみつける。だが、そう言われれば確かに、アイリは帝都からずっとシャロを駆けてやってきたのだ。おまけに一人旅で常に気を張っていた。こんな風に馬車でゆっくりと揺られる旅は久しぶりだった。しかし、前を歩くこの男なら、そんなことも構わずアイリを叩き起こしそうなものなのだが。
「おはよう、アイリ。はい、お腹すいたでしょう」
カテラがアイリに料理の入った器を差し出した。肉と野菜が程良く焦げたいい匂いが鼻腔を刺激し、胃がきゅうと唸る。アイリが器を受け取ると、カテラはもう一つの器を御者の方へと持って行った。鍋の傍に腰を下ろすと、何やら隣から視線を感じた。視線を追うと、器を持ったまま、こちらを片目でこちらを凝視しているバズの姿があった。
「……何?」
訝しげに尋ねると、片目を眼帯で覆った少年は、いや別に、と歯切れの悪い返事をして目をそらした。そういえば、昨晩アイリの何気ない一言でバズは怒っていた。後でカテラに訊いたが、バズはグリアモの町に住んでいて、故郷への愛着が人一倍あるそうだ。故郷を馬鹿にされたと思って、アイリに気まずい思いを抱いているのかもしれない。
「昨日はごめんなさい」
これから共に旅をするのだ。禍根は些細なものでも排除しておくべきだろう。そう思い立ち、アイリはバズに頭を下げる。しかし、その行動が意外だったのか、バズは目を丸くしてうろたえた。
「へっ、何?昨日?」
「ええ、だからあなたの故郷を馬鹿にしたような言い方をしてしまった事謝るわ」
「―――ああっ、そっちか!」
そっちってどっちの事?とアイリは内心疑問に思ったが、こちらの様子に構わず、バズはにっこりと屈託のない笑顔を見せた。
「いいよ別に、気にしてねぇから」
嫌味の一つも言われるかと思ったが、拍子抜けするようなあっけらかんとした態度に肩透かしを食らってしまった。
「でも、あんた思ったよりいい奴だな。ちゃんと謝ってくれるなんて」
「え?っそ、そう?ありがとう……」
いまいち状況についていけないアイリに対し、嬉しそうに肩をバシバシと叩いて来るバズ。
「そっかー、うん、なるほど。確かにこんなにいい奴なら仲良いってのもわかるな」
バズは、なにやら勝手に自己完結してしまったらしい。それきりアイリには目もくれず、まだ皆が揃っていないのに昼食をかき込み始めた。一体どういう事なのか、唸っていると、
「気にすんな、こいつは元からこういう奴だ。後腐れが無いというか、単純というか」
自分の分の器を手に持ったヴェルナーが隣にドカッと腰掛けて耳打ちした。つまり、アイリが思っているほど、バズは昨日の一件は気にしてはいなかったという事だろうか。幸せそうに肉を口に運ぶバズに、自然と笑みがこぼれた。やがて、御者の元から返ってきたカテラを交えて、四人で昼食を開始した。