第二十四章 記述者の覚悟(3)
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怒りで仕事に身が入らないかと思ったら、予想以上の仕事量に忙殺され、なにも考えられないまま夜が来ていた。ヴェルナーはぐったりと兵舎のバルコニーにもたれながら、ため息をつく。目の前には夜の闇に染まるモーゼンテルの街並みが広がっていた。
美しい夜景だと思った。
チラチラと揺らめくガス灯の明り、それを受ける黄土の煉瓦。ノスタルジックな街並みをより引き立てるのは、町を見下ろす巨大な時計塔。この町のどこからでも見えるほど存在感のある壮麗な塔。時折聞こえる鐘の音が、この町に住む者の郷愁をさらにあおる。
美しい町だ。ここに暮らす者たちも皆、それと同じ様に生き生きと人生を謳歌する。たとえ贅沢な暮しが出来なくとも、一日一日を悔いなく生きる。それなのに、―――
ヴェルナーの脳裏に昼間あったアーベントの憎らしい顔が浮かんできて、思わずバルコニーの手摺を強く握った。
人間に格差がある事は仕方ない、だが、それで誰かが理不尽な想いをする事、笑いたくても笑えない事、生きたくても生きられない事、それを受け入れる事がヴェルナーにはどうしてもできない。
それは綺麗事なのだろうか?それを望んではいけないのだろうか?そんな世界にする事は、
―――だから言っただろう?僕らは神ではないと。
その時、頭の奥で声が響いた。同時にヴェルナーのものではない感情の起伏も。以前にもあったものだ。
驚きのあまり、ヴェルナーは焦って辺りを見回す。バルコニーにはヴェルナーの姿以外なく、そこにはただ静寂があるだけだった。だが、
―――どんなに平和な世界を創ろうとも、不条理はなくならないよ。それが人間だからね。
また声がした。今度は冷静に、その声の主を分析する。ヴェルナーの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
「……サイフォス?」
―――でも、それでも人間は生きていかなくてはいけない。争いを経て、和解を経て、歴史を紡いでいく。それが人間だ。
「サイフォスだろ?どこだ?」
―――君や僕にもそれは変えられない。だから僕らは神ではない。そうだろヴェルナー?
「サイフォス!」
ヴェルナーが誰もいない暗がりに叫んだ時、その奥からぬっと影が伸びた。
「何を叫んでるんだお前は?」
「……あ」
呆れ顔で暗闇から姿を現したのはドメルトだった。彼も先ほどまで業務につきっきりだったためか、少しやつれた顔をしている。
傍から見れば一人で喚いているという、なんとも怪しい状況であった事を悟ったヴェルナーは顔を真っ赤にして、頭を下げた。
「……まあ、疲れているだろうから仕方ないが……」
「い、いえ。そういうわけではありません、すみません」
まさか幻聴が聞こえてきたなどと口が裂けても言えず、若干気の毒そうに目を反らすドメルトに何度も謝るヴェルナーだった。
落ち着いたところで、改めてなぜドメルトがここにいるのかと疑問に思った。
「隊長も息抜きですか?」
「まあな。少しこの町の外観も見ておきたかったしな」
ここは兵舎の屋上。それほど高い建物ではないが町の情景が一望できる絶好のスポットだった。今日の午前中にこの町に到着してから、目まぐるしい忙しさでここがどんな町かさえもわかっていなかった。
「いい町だろ?それほどごちゃごちゃしていなくて、古い中世期の建物がまだ残ってる。自然も多くて、空気も澄んでる。俺は退役したらここに隠居したいと思っている」
「退役って……隊長まだお若いじゃないですか」
まだ当分先の話でしょう、と生真面目な顔で話すドメルトに笑いかけた。ドメルトもそうだな、と微笑み返す。彼にしては珍しい笑い顔だった。
「だが、将来設計ってのは若いうちからやっておくもんだ。お前もいつまでも若さにかまけてぼうっとしてると、あっという間に爺になるぞ」
「肝に銘じておきます」
和やかな雰囲気の中でしばしの沈黙が降りる。そういえば、ドメルトがヴェルナーの直属の上官になってから、彼とこうして仕事以外の話をするのは初めてかもしれない。かつての上官セルシムとは、結構世間話をすることもあったし時には酒を酌み交わす事もあった。
なんとなく、ドメルトはそういうタイプではないと思っていた。仕事一辺倒で部下に対しても決して素を見せない様なそんな人間だと。でもそれは偏見だったのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふとドメルトがぽつりと呟いた。
「思ったより平気そうだな。俺の杞憂だったか」
「え?」
何を言われているのかわからず、ヴェルナーは首を傾げる。ドメルトはその様子に可笑しそうにまた笑った。
「昼間の件だ。お前の事だからもっと不貞腐れているかと思った」
ドメルトはドメルトでアーベントの件を気遣ってくれたらしい。侮辱を受けたのはドメルトの方なのに。ヴェルナーは申し訳なくなって、また一度頭を下げた。
「いえ、俺はあなたに比べれば何も……」
「だが、お前は貴族が嫌いだろう。特にああいう奴は」
ずばりと言い当てられて、ヴェルナーは固まった。ドメルトは知っている、ヴェルナーの出自も自分がどんな思考で今まで行動してきたかも。
「俺も一応貴族の出だからな。俺が言っても保身にしか聞こえないかもしれないが、アーベントの様な奴は極端な例だ。貴族にだって身分に囚われない考え方をする者もいるし、あえて平民と変わらない人生を送ろうとしている人間もいる。平民を、他人を見下すばかりが貴族じゃない」
「……わかっています、それは」
嫌というほどわかっている。もし、貴族が皆アーベントの様な人間ばかりだったら、ヴェルナーがこれまで出会ったハルトマンやノルキース、アイリやカテラといった人々とここまで親しくなれなかった。勿論目の前にいるドメルトも、自分は上官として心の底から慕っている。それでも、
「それでも、俺はこんな世界は間違っていると思います。そういう点では、俺はもしかしたら反政府組織の人間の考えに近いのかもしれない」
皇帝に仕えるはずの軍人である自分が、こんなことを言ってはいけないのだと思う。だが、それがヴェルナーの正直な想いだった。
ドメルトはじっとこちらを見据えている。そしてかける言葉を探すようにそっと空を仰ぐと、やがて静かに口を開いた。
「ならお前が変えてみるか?」
「……!」
「お前がこの国を、いや、この世界を創り変えればいい。そうすればお前の理想とする世界が創れる」
「そんなことは―――」
出来ないと言いかけて、はたと止まった。本当に?本当に出来ないのか?
今、自分が持っている力は何だ?この世界を創ったサイフォスと同じ力を持っている自分なら―――
「この世界が一人の人間の手で創り上げられた世界なら、もしかしたら俺やお前にも出来るかもな」
その瞬間、ヴェルナーは身体に電流が走った様に動けなくなった。脳みそから末端の神経までがビリビリと振動する。これは何だろうか。絶望か希望か、歓喜か悲哀か、狂熱か安穏か。いずれにせよヴェルナーに抑え込むことのできない感情が身体中を駆け巡る。その熱に浮かされ爆発しようとした時、ドメルトは気が抜けたようにふっと笑った。
「……冗談だよ」
「――え?」
「世界を創るなんて俺らには無理だろうよ。凡人には過ぎた話だ。それにもしそんな事が出来るとしたら、それはもう人間じゃなくて―――」
そして、ドメルトの口がはっきりとその言葉を紡いだ。
先ほどとは打って変わって身体が地の底に叩き落とされたような感覚。見えない刃で八つ裂きにされた様に全身が悲痛な悲鳴を上げた。
「すまんな、俺も悪乗りしすぎた。今の話は忘れてくれ。……って、どうした?」
「……いえ、なんでも、ありません…」
「……?そうか。……さて、俺はそろそろ戻るか。お前も早く休めよ」
気さくな声でそう告げると、ドメルトはその場を後にした。ヴェルナーは一歩も動けないまま、その場に立ち尽くす。
『もしそんな事が出来るとしたら』
―――違う
『それはもう人間じゃなくて』
―――違う、サイフォスは、俺は
『神様だな』
「違うっ!!」
我知らず、ヴェルナーは手摺を力任せに殴りつけた。鉄製の手摺はめきっと音を立てて歪んだが、同時にその拳にも激痛が走った。あまりの痛みに飛びあがると共にその痛みをひどく愛おしく思った。
さっき、自分なら世界を創り変えれるかもと一瞬でも思ってしまった。ドメルトは冗談だと言ったが、ヴェルナーは本気で考えてしまった。
でもそんなのは無理だ。だって自分はこうして痛みを知れる。それは人間の証だ。自分は人間だ、神様なんかじゃない。
腫れあがった手の甲を撫でてヴェルナーは自分で自分に言い聞かせた。何度も何度も、先ほど感じた思い上がりを無かった事にしようとした。
かつて自分は人ではなかった。何も持たず、唯本能のままに獣のように生きていた。だがサイフォスに出会い、沢山の人と出会った事で、自分はようやく人になれた。
もう何にもなりたくない。人以外の異形のものになど、絶対になりたくない。
何度も何度も願った時、再びその声が戻ってきた。
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