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第二十三章 そして世界は流転する(3)

 ◆

 私は気づくと巨大な塔を駆けのぼっていた。狭苦しい螺旋階段、暑苦しくて息が上がる。それでも必死で階段を上る、上らなければ下に待つのは死なのだから。

 下から聴こえる叫び声に耳をふさいだ。私の手はぶよぶよしていて皮が厚い。汗でじっとりと湿った手の感触に自分で不快になった。身体も重い、少し運動しただけですぐ息を切らしてしまう。


「ハァ……ハァ……」


 野太い声がする。それが自分の声だと一瞬分からなかった。

 一心不乱に階段を駆ける。足がもつれても、肺が痛くても、それでも必死で駆け登る。


 そして最上階に辿りついた。勢いよく扉を開け外へ出る。そこから見えた光景は、―――地獄だった。

 目の前に広がる街並みは赤く染まり、あちこちに火の手が上がっていた。黒々とした煙が空を覆い、昼間なのに太陽は陰り夜の様に暗い。あちこちから逃げ惑う市民の声と銃声が聞こえた。パンッっと弾ける音がする度に私は肩をびくりと震わせた。


「……だめだ、もう、おしまいだ……」


 絶望に身体を支配され、私は頭を抱える事しか出来なかった。そんな私の背後で、扉が乱暴に開かれる。


「――ひっ!」


 狭い塔の踊り場になだれ込んできた黒服の集団。その手に携えられた銃を目にして、私は喉を引きつらせた。


「……もう逃げられませんよ。アーベント卿。御覚悟下さい」


 黒服の一人が抑揚のない声で死刑宣告を告げる。たまらず私は、塔の手摺にしがみつき、彼らから距離を取ろうと必死になった。でっぷりと太った私の身体を縮ませながら虚勢を張る。


「お前たち!こんなことして、どうなるかわかってるのか!これは帝国反逆だぞ!」

「存じております。もとよりそのつもりです」

「わかった!金だな!?いくら欲しい!?宝石でも豪邸でも望むものがあればくれてやる。……そうだ!爵位が欲しいならお前たち全員にやろう!だから―――」

「申し訳ありませんが、私たちが望むものはそんなものではございません」


 冷ややかな声、嘲りの視線。彼らは私の命乞いなど一切耳を貸さない。


「私たちが望む物は二つだけ。この国の混乱と、」


 男の持つ銃がまっすぐにこちらを向いた。


「世の膿であるあなたのような貴族の死、それだけです」


 銃口から私の命を奪う鉛の塊が発射されるのがスローモーションで見えた。それは魔法の様に私の身体に吸い込まれ、そして爆ぜた。


「……ッ!が、あ……」


 後ろにのけぞった私は塔の手摺から乗りだし、そして何もない空中に身を投げ出した。

 撃たれた激痛と身体が地の底へと落ちていく恐怖。


 ゴーン ゴーン


 私のいた塔から荘厳な鐘の音が響く。機械仕掛けの時計はその頂点を指していた。

 私は悲鳴を上げる事も叶わず、時計塔の文字盤とこちらを見下ろす男たちを眺めていた。

 それが私の見た最期の光景だった。




「……!?」


 そしてアイリはまた飛び起きた。荒い呼吸をしながら、辺りを見回す。ここは時計塔の上でも、煙立つ街中でもない。自分がいるのは自室のソファ、時刻は午前の十一時。どうやら朝食後ソファに座りこんで転寝をしていたらしい。


「―――ぐっ……!」


 自分の状態を確認した途端、また例の発作が襲ってきた。ソファのカバーに爪を立て、懸命にその痛みに耐える。目尻に浮かんだ涙を覆い隠すようにクッションに顔をうずめ、悲鳴をかき消した。


 治まれ、治まれ……!


 恐怖に押しつぶされる心を宥め躍起になる。じくじくと侵食する痛みと熱に、アイリは一人で耐え続けた。


 波が引いた頃には、アイリは汗だくになって突っ伏していた。全身は疲労で力が入らず、アイリはしばらくソファから動く事が出来なかった。

 でも耐えきった。後何回、こんなことを経験しなくてはいけないのかわからないが、まだ自分の身体は大丈夫だと、アイリは胸をなでおろした。その時、


「アイリ様。お客様がお見えになりましたよ」


 使用人のクラーラが扉をノックする。アイリは慌てて服を整え、何事も無かったかのように扉を開けた。


「クラーラ、ありがとう。客間にお通しして」

「かしこまりました。……アイリ様、お休みになられていたのですか?」


 クラーラが目を細めて、アイリを見つめたのでアイリはドキリとした。


「う、うん。ちょっとソファで転寝しちゃって。なんか変な体勢で寝ちゃってたから。…どこかおかしい?」

「御髪が乱れておりますよ。もう……、御友人とは言えお客様の前なのですから、きちんとなさらないといけませんよ」


 少し呆れたように柔らかく微笑んだクラーラが、手櫛でアイリの髪を整える。アイリは気恥ずかしくなりながらも、ホッと胸をなでおろした。


「さ、お客様がお待ちですよ。御準備下さいませ」

「ええ、わかったわ」


 アイリは顔を上げて笑顔を作った。そうだ、今日はアイリに会いに来る人がいるのだ。楽しみにしていた日なのだ。


 ◆

 ヴェルナーがグリアモにいたその頃、ソフィアはパヴコヴィックと共にアイリが棲んでいるというライム家の屋敷を訪れていた。


 数日前、パヴコヴィックが唐突にソフィアのいたアパートを訪問してきた。


『君はアイリ=ジュンア女史と知り合いだそうだな。どうだ、彼女の婚前見舞いに行かないか?』


 それを聞いた時ソフィアは目を瞬かせた。何故博士がアイリと知り合いなのかとか、何故婚姻の事を知っているのかとか、何故今になって見舞いにとか疑問は色々あったが、とりあえず二つ返事で承諾した。


 記述者の御殿で働いていたソフィアにとって、貴族の屋敷はさほど驚くべきものではない。それでも、久々に入り込んだ本物の上流階級の屋敷の内部を見て、ソフィアはため息をついた。通された客間の調度品に目を奪われていると、隣で少年が楽しそうに喉を鳴らす。


「さすがは、帝都有数の貴族、ライム家の屋敷だな。……趣味がいいかは別物だが」

「博士、よそのお宅でそういう発言はいかがなものかと。あと、品定めするような目はおやめになって下さい」

「なんだイルディ、君だって貴族の屋敷は物珍しいのだろう?目が泳いでいるぞ先ほどから」

「余計なお世話です。そんなところまで観察なさらないでください」


 ソフィアの隣でそんな会話を続けているのは、まだ十代前半の少年の姿をしたパヴコヴィックと、彼にからかわれている若い女性だった。女性の方はソフィアは今日初めて会った。


 彼女の名はイルムヒルデ=ヘイズ、パヴコヴィックの弟子でありこの帝都で潜りの医者をしている記述師だそうだ。

 パヴコヴィックに紹介され出会った女性は、地味な顔立ちに豊満な体、くたびれた服に白衣を着ただけの不思議な出で立ちだ。


 彼女はソフィアに気だるそうに挨拶をして、それだけだった。

 ソフィアも適当に挨拶をして、それだけだった。

 なんともドライな初顔合わせだったが、両方とも特に気にした風はない。


 彼女が同行していたのは、パヴコヴィックには婚前見舞い以外にもう一つ目的があるからだった。その目的について道中で簡単な事情を聞いたもののソフィアは今一つ咀嚼出来ていない。

 まだ語らっているパヴコヴィックとイルムヒルデにソフィアが口を挟んだ。


「それで、博士。その、ヴェルナーが言っていたアイリの体調の件ってどういうことなんですか?」

「いや、私も本人に聞いたわけではないし。私は青年に『少し見てやってくれ』と頼まれただけだからなぁ」


 パヴコヴィックは参ったと言いつつ、まったく参ってはいない笑顔をしていた。

 

 ヴェルナーはしばらく帝都を発つと言って数日前に出発した。その行き先は聞いていないが、出発前に博士の元を訪れて言伝を頼んで行ったという。すると、肝心のイルムヒルデも呆れたように肩をすくめた。


「わかってらっしゃらなかったのですね。私もジュンアさんとは少し関わりがあるとはいえ、いきなり呼びつけて「来い」とは少々説明不足ではないかと思いましたが」


 全く悪びれていないパヴコヴィックとそれを怪訝な顔で睨みつけるイルムヒルデ。二人に挟まれたソフィアはどうしていいかわからずまたため息をついた。

 早く来てくれないだろうか、とここにいない人物に念を送ると、それに応えるように意中の人物が顔を見せた。


「皆様、ようこそいらっしゃいました」


 姿勢を正し、恭しく一礼するのは、先日ソフィアが街で偶然出会った女性、アイリ=ジュンア。


「お邪魔します。アイリ」

「いらっしゃいソフィア。また会えるなんて嬉しいわ」


 アイリは相変わらず屈託のない笑みを向ける。先日の騒動で倒れたきりアイリとは直接顔を合わせていなかったので心配していたが、どうやら杞憂の様だ。


「博士もお久しぶりです」

「久しぶりだなお嬢さん。以前見た時と比べて一層麗しい女性になった」

「い、いえ、そんな……」


 パヴコヴィックにそう言われてアイリは顔を赤らめる。


「ヘイズ先生も、その節は大変お世話になりました」

「いえ、私は大したことはできませんでした。あの後御友人がお亡くなりになられたと聞きました。お力になれず申し訳ありません、お悔やみ申し上げます」

「……いえ、あなたのせいではありませんから」


 頭を下げるイルムヒルデにアイリは暗い顔で答える。ソフィアには聞き知らぬ話だが、どうやら彼女たちにも色々と事情があるらしい。

 ふっと肩の力を抜くと、アイリは柔らかく微笑んだ。その表情にソフィアは心臓の奥がチクリと痛む。


「本当に来て下さってありがとうございます。今日はごゆっくりお寛ぎ下さい」


 もう一度静かに頭を下げるアイリの姿は、清々しいほど美しく、そして悲しかった。

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