第二十三章 そして世界は流転する(1)
「ごめんね……ルシアン」
辛そうな優しい声で姉は僕に謝った。姉はいつだって僕に優しかった。だが、今の姉の優しい笑顔と声は、恐怖を助長するだけにすぎない。屋敷の遠く外で怒号が鳴りやまない中、この部屋だけはやけに静かで、姉はいつも通りに笑っていた。
「あなたが生きるためにはこうするしかないの。お願い、言う事を聞いて」
「……嫌だ、嫌だよ……!」
姉の手に握りしめられた一振りの小さなナイフが煌めく。僕はその恐ろしいほどの美しさに思わず後ずさった。
「姉さん、僕は嫌だ!隠れてこそこそ生きるくらいなら、死んだっていい!そして父さんと同じように―――」
「馬鹿な事を言わないで!」
初めて姉の顔が怒りに歪んだ。姉が乱暴に僕の手を掴んだので、思わず悲鳴を上げる。
「あなたは生きなきゃダメ!死んだお父様のためにも!あなたは生き延びるの!私ではなく、あなたが!」
それは今まで見た事も無い、姉の激情だった。穏やかな彼女でも怒る事があるのだと初めて知った。
その時、屋敷の外が一層騒がしくなった。断続的に聞こえていた騒音のボリュームが上がり、何かがこの屋敷に近づいて来るのがわかる。険しい目つきで姉は窓の外を見据えた。
「もう追手が来た……」
「姉さん、僕は―――」
言い終える前に、姉は僕の首元を掴んだ。乱暴に押し倒され、馬乗りになった姉と目があった。
「ルシアン、いいわね?私が囮になるから、あなたは例の通路から逃げなさい。この国の外へ、遠くへ逃げなさい」
「嫌だ、嫌だ!姉さんも一緒に―――」
言葉が続かなかった。姉はまた穏やかな表情で、泣いていた。そしてゆっくりと、手にしたナイフを掲げた。
「ごめんね、ルシアン。ごめんね。お姉ちゃんの事許さなくていいからね」
そしてナイフが静かに振り下ろされた。その切っ先は左の眼球に迫り、そして、
―――!!
僕は痛みで悲鳴を上げた。潰された左目を押さえてのたうち回った。
すると、姉は僕を抱きしめた。何度も謝りながら、「大丈夫だよ」と繰り返す。
近くで大きな叫び声が聴こえた。姉の顔はより険しくなり、僕のつぶれた左目に包帯を巻くと、今度こそ僕の身体を突き飛ばした。
「さあ、行きなさい!早く!」
「姉さん!―――!」
僕は目の痛みと胸の苦しさにえづきながら、部屋の奥にある隠し通路の入口に走った。
最後に、姉の優しい声がまた届いた。
「さようなら、私の可愛い弟。どうか―――生きて」
「……ダー、リーダー!」
呼ばれている事に気づいて、バズは顔を上げた。自分と同じ年代の若い男が、心配そうにこちらを覗きこんでいる。
「大丈夫っすか、リーダー?さっきからずっと呼んでるんですけど」
「……ああ、リプスキルか。悪い、何か用だったか?」
頬を打って頭の中を引きしめると、バズは改めて周囲を見回した。
ここは帝都の郊外ある打ち捨てられた廃工場。産業革命期に有数の資本家が財を投資して立てた製糸工場であったが、突如始まったイシルとの戦争で戦争恐慌が訪れ、持ち主が破産し見捨てられた場所だった。帝都の人間はわざわざこんなところまで足を運ぶ事はなく、中心部から離れているせいか、巡回の兵士もめったに訪れない。そんな見捨てられた土地は、今バズたちにとって格好の隠れ家となっていた。
今の時間帯は、数人の構成員が集まっているだけだが、多い時は百を超える若者がここに集まる事さえある。最近は軍の目も厳しくなっているため、大々的な集会は自粛気味だが、それでもここには志を同じにする同志たちが数多く集まるのだ。
だが、ここ数日彼らの間に少し気まずい雰囲気が流れている事は否めない。というのも、
「こないだ収容所に特攻してった奴ら、結局一晩拘置で赦しちまったけどいいんですか?」
リプスキルの苦い顔を見て、バズもため息をついた。
先日、バズに無断で軍の兵器収容所を襲撃し、オーリクを奪取しようとしていた連中。無謀な計画は失敗に終わり、仲間の何人かは軍に捕まった。あの時計画を漏れ聞いたバズが助けに行かなければ、被害はもっと拡大していただろう。
「俺らはギルドじゃないし、掟も約束事もそもそもない。ただ帝国の是正という志を掲げて集まっただけの人間なんだから。一々制裁なんて加えてやるつもりはないよ」
確かに刑罰は必要だが、そのために傷害までやりだしたらそれこそ蛮行の集団だ。バズは力で抑えつけるつもりでリーダーになったわけではない。
さすがに何もしないというのも示しがつかないから、一晩部屋に閉じ込めるという措置に収めたのだが、やはりよく思わない者もいるらしい。
「……まあ、俺はリーダーがいいって言うならそれでいいですけど」
「なんか含みのある言い方だな」
皮肉交じりに笑うと、リプスキルも口を歪めた。
「でも、なんだかんだ言ってあいつらもリーダーの為にやったみたいなんで、リーダーがそう言ってくれるとあいつらも救われますよ」
「それなんだけどよ。よくこんなに人数集まったよな、我ながらびっくりだよ」
「そりゃあ、皆リーダーの事慕って集まってきたんですから」
そう言われてもバズはいまいちピンとこなかった。確かに二年前、各地で無秩序な騒動を繰り返し燻っている連中に、どうすれば効率よく上に主張を押し通せるかを説き始めたのはバズだ。それが功を奏してか、バズの周りには同じように不満を抱えていた連中が集まりだした。貧困に喘ぐ者、貴族に虐げられ続けてきた者、働き口を失くし路頭に迷う者、雇い主から不当に扱われ続けた者。そう言った者の中で若い世代を集めて作ったのがこの組織だ。
今、目の前にいるリプスキルだってそうだ。幼い頃から生きるために悪質な資本家の元で馬車馬のように働き続けた末に、不景気だからという理由で首を切られた。弱者ばかりが虐げられる、そんな理不尽な世の中を変えたいのだと言って、ここにやってきた。ここにいるのはそんな奴らばかりだ。
だからバズはより一層申し訳なく思う。バズが彼らを扇動し始めたのは、彼らと同じ理由じゃない。本当はバズには別の理由がある。
「……俺は、お前らと同じ目的があってここにいるわけじゃない。だから、慕われても正直その期待に応えてやれない」
「リーダー……?」
結局バズは利用しているだけだ。彼らを、この男を。自分の目的のために、彼らの力を借りているだけ。慕われても困る。
「……それでも俺らはあんたに付いて行きますよ。あんたにどんな思惑があったとしても、俺らに立ち上がる力をくれたのはあんたですから」
そう言ってリプスキルは笑った。
「そういえば例の作戦そろそろですよね?俺その事確認しに来たんでした。予定通り進めて大丈夫ですか?」
「ああ、近いうちにここで集会開く。お前らもそのつもりしといてくれ」
バズが頷くと、「わかりました」とリプスキルは去っていく。その背中を見ながら、バズは目を細めた。
仲間。きっとバズが彼らを形容するのならそう表現するのが一番だろう。それだけ多くの時間を彼らと過ごしてきた。二年弱、それは短い様で長い時間。
グリアモでヴェルナーと過ごした時間と今の仲間と過ごした時間。もう間もなく追いついてしまう。ヴェルナーと過ごしたあの二年間が過去になる。仲間に囲まれている今を恵まれていないなんて思えない。でもバズにとってそれが何よりも辛かった。
この二年という歳月は、それほどまでにバズにとって大きかった。




