境界門は誰を待つ
北の霧の向こうに立っていたのは、門というより、山肌に差し込まれた巨大な一枚の鉄板だった。
左右の石柱は崩れかけ、蔦が幾重にも絡んでいる。けれど鉄板だけは新しく、黒い表面に月光がぬめるように滑っていた。中央には鍵穴がひとつ。その上に、三つの鐘が吊られている。
一つ目と二つ目は錆びていた。三つ目だけが、音を待つように静かに揺れている。
「ここが北の門?」
イオナが尋ねると、ニコは頷いた。
「門の向こうに、昔の道がある。道があった、じゃなくて、今もあるよ。誰も地図に描かないだけで」
彼は鞄から銀の鍵を取り出した。鍵の持ち手には三十七の数字。差し込む前に、ディートリヒが鉄板へ手をかざす。
「この門を見たことがある」
「いつですか」
「十年前だ。父の葬儀のあと、王都から来た役人に連れてこられた。谷の北側を封鎖するための門だと言われた」
ディートリヒの横顔から、霧よりも濃い影が落ちた。
「私は、門の向こうに避難路があると聞かされていた。領民をそこへ移せば、採掘場の事故から守れると。だが、門を閉めたのは私だ」
「公爵さまが?」
「当時は公爵ではない。父の代理だった。王冠図に載っていない道を使えば、領主が違法な通路を作ったことになる。そう脅された」
ニコが鍵を握る手を下ろした。
「それで、母さんたちは門の向こうに行けなかった」
「……そうだ」
短い返事だった。言い訳を探せば、いくらでも見つかるはずなのに、ディートリヒは何も足さなかった。
イオナは鉄の門を見つめた。黒い表面には細かな傷が無数に刻まれている。爪でつけたもの、石で叩いたもの、何かを引きずった跡。その一つひとつが、閉じ込められた人の手の高さにあった。
「閉めた人が、開けることもできます」
慰めのつもりではなかった。慰めで済ませてはいけないことだと思った。
「ただし、今度は誰かに命じられたからではなく、ご自分の名前で」
ディートリヒはイオナを見た。灰色の瞳に驚きが浮かび、すぐに決意へ変わる。
「ディートリヒ・アルヴァン。アルヴァン領主の名において、門を開ける」
鉄板は動かなかった。
ニコが小さく息を吐く。
「領主の名前じゃ、足りないんだよ」
「では、何が必要だ」
「待ってる人の名前」
ニコは鍵穴に銀の鍵を差し込んだ。硬い音がして、奥で何かが噛み合う。だが鍵は回らない。
彼は目を閉じた。
「エルナ・セイン。母さんの娘。三十七番目の家の子。鐘が三つ鳴る前に、薬と靴下を届けに来た」
鍵が、ひとりでに回った。
同時に、三つ目の鐘が鳴る。音は耳で聞くものではなく、胸の奥に落ちてくるようだった。鉄板の表面に月墨の線が走り、門の輪郭を白く縁取っていく。
ぎ、と低い音を立てて、鉄板が内側へ開いた。
その向こうには、崖に挟まれた細い道があった。道の先に小さな明かりがいくつも浮かんでいる。誰かがこちらを見ているのだ。
「エルナ?」
ニコが呼ぶ。
明かりの一つが揺れた。やがて杖をついた少女が、石垣の陰から姿を現す。年の頃はニコと同じくらいに見えたが、頬は痩せ、左足をかばって歩いている。少女はニコの顔を見て、唇を震わせた。
「……遅いよ、お兄ちゃん」
ニコの鞄が地面に落ちた。彼は走り出し、少女の前で急に立ち止まる。触れていいのか迷ったのだろう。次の瞬間、エルナのほうから両腕を伸ばした。
「お母さんの匂いがする」
「これ、母さんの薬草。靴下も……ずっと持ってた」
「うん。手紙も、ずっと待ってた」
二人が抱き合う間、イオナは門の内側に刻まれた文字を見つけた。外側からは削り取られていたが、内側にはまだ残っている。
『アルヴァン北境門。登録された家の者、帰路を求める者、これを通す』
その下には、王冠をかたどった封蝋の跡があった。封蝋は剥がされ、代わりに黒い塗料で別の印が重ねられている。測図院の印だ。さらに門の蝶番のそばには、紙片が釘で留められていた。
イオナは月墨を一滴、指先から落とす。
消えた紙の文字が浮かび上がった。
『境界線変更の許可。アルヴァン北部、居住記録三十七戸を未登録とする』
署名の部分だけが、鋭く切り取られていた。
「見つけたか」
ディートリヒが背後から低く言った。
「はい。でも、署名がありません」
「切り取った跡が証拠になる」
「誰かが、見つけられると思っていたのでしょうか」
「あるいは、見つけられては困る人間がいた」
ディートリヒは紙片に触れなかった。触れれば、十年前に自分が閉めた門と同じものを、また汚してしまうとでも思っているようだった。
イオナは紙片を慎重に外し、折りたたんだ。月墨の線が、切り取られた端から門の奥へ伸びている。道ではない。古い記録を辿るための線だった。
「この先に、元の記録があるかもしれません」
「ならば、行こう」
ディートリヒが言った。
エルナはニコの手を握ったまま、彼を見上げた。
「お兄ちゃん、この人たちは誰?」
「地図を描く人と、地図に帰れなかった人」
ニコの答えに、ディートリヒが苦笑する。
「ずいぶん簡潔だな」
「間違ってないよ」
イオナは思わず笑った。ディートリヒも、ほんの少しだけ口元を緩める。
門の向こうから、遠く四つ目の鐘が鳴った。もう存在しないはずの鐘だった。
その音に合わせて、空白の中に一本の道が現れた。道の先には、誰かが隠した記録と、まだ呼ばれていない名前が待っている。
境界門が待っていたのは、公爵でも、王冠でもなかった。
帰りたいと願う人の名を、帰すと約束する者だった。
イオナは紙片を胸元へしまい、ディートリヒの隣に立った。今度は彼のほうから、手を差し出してくる。
「離れるな」
「門の向こうでも?」
「どこにいても」
その言葉が霧の中で、地図より確かな線になった。




