表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/20

消された署名

 門の向こうに現れた道は、山の腹を縫うように続いていた。


 エルナとニコは手をつないで先を歩き、ディートリヒは二人の足元を照らすためにランタンを掲げている。イオナは胸元にしまった紙片を何度も確かめた。切り取られた署名の端から伸びた月墨の線は、道の石畳にまで続いている。


「この道は、どこへ行くのですか」


「古い領主館の記録庫。十年前に閉鎖された」


 ディートリヒが答えた。


「父の代には、北境の家々の戸籍も税の記録も、そこで保管していた。門を閉めたあと、役人たちは記録庫を空にしたと言っていたが……」


「空にしたなら、どうして道が残っているの?」


 ニコが振り返る。


「人は紙を持ち去れても、道を歩いた記憶までは持ち去れないからだ」


 イオナが言うと、ニコは納得したように頷いた。


 しばらく進むと、崖の中腹に低い石造りの建物が見えてきた。屋根は半分崩れ、窓は板で塞がれている。扉には測図院の黒い封印があった。だが封印の下に、アルヴァン家の古い紋章がかすかに浮いている。


 ディートリヒは扉の前で立ち止まった。


「私が開ける」


「公爵さまの名で?」


「違う。あのときの私の名で」


 彼は懐から、折り目のついた薄い書類を取り出した。十年前、まだ父の代理だった頃に交わした書面だという。そこには、北境の住民を一時避難させるため、王都の指示に従って境界門を閉じる、と記されていた。


「私はこの紙に署名した。採掘場の崩落が迫っている、門を開けておけば領民が巻き込まれると言われた。避難先は別に用意されると」


「でも、用意されなかった」


「ああ。私は確認しなかった。確認できなかったという言い方もできるが、結果は同じだ」


 責める言葉が喉まで上がった。けれどイオナは飲み込まなかった。言い訳をしない彼の顔に、罰を受けることだけを望む人の色があったからだ。


「この記録庫を開けるのは、罪を消すためではありません」


 イオナは紙片を封印へ押し当てた。


「何が起きたかを、誰にも消せない形にするためです」


 月墨が黒い封印へ染み込んだ。線は紙片の切断面から広がり、扉の表面に古い文字を浮かび上がらせる。


『記録は、語られた者のもとへ帰る』


 封印が音もなくほどけた。


 中には棚が並んでいた。多くは空っぽだったが、奥の石壁だけが不自然に濡れている。イオナが指先を近づけると、月墨が青白く光った。壁の裏から、紙ではない何かの記憶が反応している。


「ここを開けて」


 ディートリヒが剣の柄で石を叩いた。三度目に、壁の一部が内側へ沈む。隠し部屋には、鉛の箱がひとつ置かれていた。蓋には王冠と測図院の印が重ねて刻まれている。


 箱の中にあったのは、古い王冠図と、境界線変更の原本だった。


 イオナは息を止めた。


 原本の最初の頁には、アルヴァン北部の三十七戸を空白域へ移す理由が並んでいる。道が危険であること。住民の数が少ないこと。王国の保護を維持する費用に見合わないこと。


 どれも嘘ではない。だからこそ、もっとも冷たい嘘だった。


 最後の頁には、採掘予定地を示す赤い線が引かれていた。星脈石の鉱脈が、三十七戸の家々の真下を通っている。住民を消せば、土地は空白になり、採掘権を争う者もいなくなる。


「王都は、領民を守るために消したのではない」


 ディートリヒの声が震えた。


「土地だけを残して、人を消した」


 イオナは頁の端に指を置いた。そこには、何度も削られた跡がある。爪でなぞると、紙の繊維に残った記憶が指先へ流れ込んできた。


 白い机。銀のペン。窓の外に積まれた星脈石。


 若い役人が言っている。


『署名を。測図院が認めれば、王冠図はただちに書き換えられます』


 別の女の声が答えた。


『記録から名前を抜けば、反対する者もいなくなるでしょう』


 記憶の最後に、ペンを置いた人物の手が映った。細い指に、黒曜石の指輪。測図院長の印章と同じ意匠だった。


 削られた署名が、月墨の上に戻ってくる。


『王立測図院次官 セドナ・ケルク』


 その下には、アルヴァン家の印もあった。ディートリヒが交わした書面の署名だ。


「私の署名がある。これでは、私も消去を望んだ領主に見える」


「見えるのではなく、そう見せるために並べられたのです」


「だが、私は署名した」


「ならば、その署名も含めて持ち帰ります」


 イオナは原本を閉じ、月墨で新しい線を引いた。セドナの名から、三十七戸の家々へ。さらに家々から境界門へ。途切れていた道が一本につながる。


 線はほどけなかった。


 真実の記憶が、そこにあった。


 ニコが鉛の箱から小さな帳面を見つけた。表紙には、北境で暮らした家の名前が三十七並んでいる。エルナが覗き込み、震える指で一つをなぞった。


「母さんの名前、ある」


「名前は、消えていなかったんだ」


 ニコの声に、初めて泣きそうな響きが混じった。


 イオナは帳面を彼へ渡した。重さのない紙なのに、腕が痛くなるほど重かった。これは地図ではない。誰かがここにいたという、三十七戸分の証明だ。


 外では、夜明け前の風が谷を渡っている。遠くで、境界門の鐘が鳴った。


「王都へ戻る」


 ディートリヒが言った。


「この原本と、住民たちの記憶を持って」


「はい。今度は、誰かに帰れと言われたからではなく」


 イオナは彼の隣に立った。


「私たち自身が、帰る道を選ぶために」


 鉛の箱の底に、まだ一枚の白紙が残っていた。そこには、消された署名の跡だけが黒く残っている。


 イオナが月墨を落とすと、紙の中央に新しい文字が浮かんだ。


『証人、イオナ・フェルク。証人、ディートリヒ・アルヴァン』


 消された署名の隣に、二人の名が並んだ。


 空白の谷は、もう黙っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ