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空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


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11/20

王都へ戻る、空白を抱えて

 夜明けの谷に、久しぶりの鐘が鳴った。


 境界門の上に取りつけられた古い鐘は、十年前から一度も鳴らされていなかったという。けれど今朝は、風もないのに低く長く響いた。眠っていた道が、帰ってきた人々の足音を覚えているようだった。


 門の前には、谷の住民たちが集まっていた。


 エルナは小さな包みをイオナへ差し出した。焼きたてのパンと、乾燥させた薬草が入っている。


「王都は遠いのでしょう。道がまた消えたら、これを食べて待っていてください」


「待つのは、あなたたちのほうではありませんか」


 イオナが尋ねると、エルナは穏やかに笑った。


「今度は、待つ場所を忘れませんから」


 その言葉に、胸の奥が温かくなった。


 王都へ向かうのは、イオナとディートリヒ、それからニコの三人だった。エルナは谷に残り、家々を訪ねて記憶を集める役目を引き受けてくれた。三十七戸の名を、ひとつも欠けさせないために。


 ニコは鉛の箱を抱え、馬車の荷台に座っている。箱の中には境界線変更の原本と、三十七の家名を記した帳面が収められていた。重いはずなのに、彼は決して手放そうとしなかった。


「俺も証人だから」


 出発前、ニコはそう言った。


「母さんの名前を、俺は覚えている。紙に書いてあるだけじゃない。声も、笑い方も、冬になると窓に星を描いていたことも覚えている」


「王都で、話すのは怖くない?」


「怖いよ。でも、忘れるほうが嫌だ」


 その返事を聞いたディートリヒは、しばらく黙っていた。そして自分の外套を脱ぎ、ニコの肩へかけた。


「ならば、忘れられないように話せばいい。私たちはおまえの言葉を記録する」


「公爵さまも、話すの?」


「私の署名についてなら、何度でも」


 ディートリヒの横顔は、谷を出る前より険しかった。原本の最後に並ぶ自分の署名を、彼は隠そうとしなかった。王都へ持ち帰る証拠の中で、それだけが彼自身を傷つける刃になるかもしれないのに。


 道は、境界門を越えると少しずつ薄くなった。


 イオナが昨夜引いた月墨の線は、朝の光の中でも消えずに残っている。だが王冠図を広げると、北境から王都までの部分には、何も描かれていなかった。道は確かに馬車の車輪の下にあるのに、地図の上では三人の行き先が存在しない。


「変ですね」


 イオナは地図を膝に置いたまま呟いた。


「目の前に道があるのに、帰る場所がない」


「だから、戻るのではなく、戻ったと証明しに行く」


 ディートリヒが言った。


「王都は私を公爵として迎えないかもしれない。アルヴァン領も、すぐには領地として認められないだろう。それでも、谷の人々が存在したことまで奪わせるつもりはない」


「爵位を失っても?」


「爵位は、失ったあとでも名乗れるものなのか?」


 冗談めかした声だったが、目は笑っていなかった。


「あなたは、ディートリヒ・アルヴァンです。地図に書かれていなくても」


 イオナが答えると、彼の指が膝の上でわずかに動いた。


「君は、地図に書かれた名だけを信じる写字生ではなかったな」


「書かれていないからこそ、聞き取るのです」


 視線が重なった。馬車が石を踏み、二人の肩が触れる。ほんの一瞬のことなのに、イオナはなぜか月墨の瓶を落としそうになった。


 王都の外壁が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。


 門前には、帰還を知らせる鐘も、出迎えの使者もいなかった。ディートリヒが身分証を示すと、門番は眉をひそめて書類を何度も見比べた。


「アルヴァン公爵領から、ですか?」


「そうだ」


「その領名は、現在の王冠図にありません」


「領名が消えたから、領民も消えたと?」


 ディートリヒの声が冷える。


 門番は怯えたように首を振った。


「私には判断できません。ただ、記録にない道から来た馬車は通せない決まりで……」


 イオナは荷台から降り、王冠図を開いた。王都の門を示す線から、北へ伸びるはずの街道が途中で切れている。そこへ月墨を一滴落とすと、馬車の車輪が通ってきた道の記憶が、薄い光となって浮かび上がった。


 門番の顔から血の気が引く。


「これは、許可なく地図を書き換えたことになります」


「違います」


 イオナは震える手を押さえた。


「書き換えたのではありません。あった道を、戻しただけです」


 門番が上役を呼びに走った。待つ間、ディートリヒは何も言わず、イオナの隣に立っていた。やがて現れた役人は王立測図院の紋章をつけ、鉛の箱を見た瞬間に表情を変えた。


「イオナ・フェルク。ディートリヒ・アルヴァン。測図院長セドナ・ケルクの命により、明朝、白紙祭準備室へ出頭せよ」


 役人が差し出した召喚状には、二人の名前と、こう記されていた。


『王冠図の無断改変および虚偽の証言について審問する』


 イオナは紙面を見つめた。


 真実を持ち帰ったはずなのに、最初に向けられた言葉は罪だった。


「ニコは?」


 ディートリヒが尋ねる。


「未成年の証言は受理しない。必要なら後日、保護者同席で呼ぶ」


「彼の記憶を、都合よく後日に回すつもりですか」


「公爵、ここで騒ぎを起こせば、あなた方の立場はさらに悪くなる」


 役人はそう言って、召喚状を置いて去った。


 ニコが唇を噛む。イオナは彼の手から鉛の箱を受け取り、しっかりと抱え直した。


 その夜、三人が向かったのは宿ではなく、王立測図院の裏手にある古文書庫だった。誰もいないはずの勝手口から、白髪の女が顔を出す。


「遅かったね。けれど、間に合った」


 マルダ・セインは、イオナの胸元の紙片を見て頷いた。


「明日の審問で、最初に問われるのは地図ではない。君が、誰の命令で線を引いたかだよ」


「私の意思で引きました」


「そう答えな。地図は、命令だけでは真実にならない」


 マルダは扉の内側へ三人を招き入れた。棚の奥には、改訂前の王冠図が幾重にも隠されている。


「空白を抱えて戻ってきたね、イオナ」


 彼女は静かに言った。


「今度は、その空白を王都の人々の前に置く番だ」


 イオナは鉛の箱を机へ置いた。蓋の上で、二人の証人の名が月光を受けて黒く光る。


 王都へ戻った。けれど、帰ってきたことと、帰る場所を得ることは同じではない。


 明日、白紙の前で問われる。


 この地図に、誰の名前を書くのかを。

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