白紙祭の審問
白紙祭の朝、王都はいつもより静かだった。
通りには白い布が渡され、広場の中央には、王冠図を写し取るための巨大な紙が掲げられている。年に一度、まだ確定していない土地を白紙に戻す儀式。その準備をする人々の顔に、祭りを楽しむ明るさはなかった。
王立測図院の準備室には、細長い机が三つ並べられていた。正面の高い席に座るのは、測図院長セドナ・ケルク。左右には王都の記録官と、地図の検分を任された上級写字生がいる。
イオナは部屋の中央に立ち、背後にディートリヒを感じていた。
ニコは入室を許されなかった。マルダが古文書庫で預かっている。鉛の箱だけが、机の上に置かれていた。
「被告、イオナ・フェルク。王冠図への無断改変を認めますか」
記録官が読み上げた。
「認めません」
「では、王都の門前で道を描いたことは?」
「描きました。馬車が通ってきた道を、記憶写しの術で示しただけです」
「王冠図に存在しなかった線を加えたのに、改変ではないと?」
イオナは正面の白紙を見た。何も書かれていないのに、そこには無数の目があるようだった。誰かの家を、村を、人生を、最初からなかったことにするための白紙だ。
「存在しなかったのではありません。存在する道が、地図から消されていただけです」
室内の空気がわずかに揺れた。
セドナが細い指を組む。
「証拠は?」
ディートリヒが鉛の箱へ手を伸ばした。
「アルヴァン公爵領の境界線変更、その原本です。三十七戸の家名を記した帳面もある」
「あなた自身の署名も、そこにあるのでしょう」
「ある」
「ならば話は簡単です。公爵は王命に従い、領地の再編に同意した。後になって考えを変え、下級写字生を使って虚偽の道を作った。それが事実ではありませんか」
その言葉は、よく磨かれた刃のようだった。
ディートリヒは否定しなかった。代わりに箱の蓋を開く。中から取り出された紙は古く、端が焼け焦げている。境界線の変更を命じる文書。その下に、確かに彼の署名があった。
記録官が勝ち誇ったように息を吸う。
「署名は認めます」
ディートリヒは言った。
「ただし、これが領民の同意を示すものだという解釈は認めない」
「署名したのはあなたです」
「そうだ。十年前、私は署名した」
初めて聞く告白に、イオナの胸が詰まった。谷を守るために、彼は自分を裏切り者にした。その事情を、ここで語ることもできるはずなのに、彼はまだ口を閉ざしている。
セドナはそれをためらいと受け取ったらしい。
「ご覧のとおり、公爵の証言は信用できません。自らの署名を隠し、領民の記憶を利用して王冠図を揺るがそうとしている」
「隠してはいません」
イオナは言った。
「私たちは、その署名を含めて持ち帰りました」
「あなたは公爵に命じられたのでは?」
「いいえ」
「測図院の許可なく、空白域へ赴いたのでは?」
「はい」
「では、規則違反は認めるのですね」
「規則に違反したことと、記憶が嘘であることは別です」
言い切った瞬間、正面の白紙に薄い灰色の線が浮かんだ。
誰も触れていない紙の上を、一本の道がゆっくり伸びていく。王都の門から北へ。霧の谷を抜け、境界門へ続く道。その脇に、小さな家の印が三十七個、順番に灯った。
ざわめきが起こった。
上級写字生が立ち上がり、紙へ近づく。
「月墨を仕込んだのか」
「何も塗っていません」
「ならば、術式を停止しろ!」
イオナは両手を握った。線は彼女が望んだから現れたのではない。谷で聞いた声と、ニコが抱えていた帳面と、帰り道を覚えていた馬車の車輪。そのすべてが、白紙の上でひとつになったのだ。
セドナが机を叩いた。
「虚偽の記憶を地図へ流し込んだだけです。白紙祭の紙を汚した罪は重い。イオナ・フェルクの筆記具を没収し、審問が終わるまで測図院への立ち入りを禁じます」
係の者が近づいてきた。
腰の筆筒を外そうとする手を、ディートリヒがつかむ。
「彼女に触れるな」
「公爵、あなたにも証言拒否の疑いが――」
「拒否しているのは、そちらだ」
低い声が室内を震わせた。
「三十七人の名前を聞くことを拒み、道があったという記録を見ることを拒み、都合の悪い線を白紙へ戻そうとしている」
扉の外から、誰かの息をのむ音が聞こえた。準備室の前には、祭りの係や見習い写字生たちが集まっていたらしい。
セドナの顔から、初めて余裕が消えた。
そのとき、白紙の端に新しい文字が浮かんだ。
アルヴァン。
誰かが囁く。誰かが、昔その名を聞いたことがあると言う。ひとつの記憶が、別の記憶を呼び起こしていく。
イオナは自分の筆筒へ手を伸ばした。けれど、筆を取り出す前に、セドナの声が響く。
「それ以上、地図へ線を引けば、あなたを正式に逮捕します」
白紙の上で、三十七の家の灯が揺れていた。
イオナは筆を握ったまま、まっすぐ院長を見返した。
「では、ひとつだけ答えてください」
彼女の声は震えていた。それでも、消えなかった。
「真実を描くことは、本当に罪なのですか」
誰も答えなかった。
答えの代わりに、白紙の中央へ、まだ知らない誰かの記憶が一筋の光になって走った。




