私の地図は違法ですか
白紙の中央を走った光は、細い文字へ変わった。
『測図規程、第七条。三名以上の居住者が同じ道を証言し、現地にその痕跡がある場合、写字生は仮道を記載できる』
読み上げたのは、扉の外にいた見習い写字生だった。まだ少年の面影を残す彼は、紙に浮かんだ文字と、手にした規程集を何度も見比べている。
「そんな条文は……」
セドナが立ち上がった。椅子の脚が石床を擦り、耳障りな音を立てる。
見習いは怯みながらも、規程集を開いた。
「第七条、空白域の災害調査に関する補則です。古い規程なので、現行の簡易版には載っていません」
「古い規程は失効している」
「失効したという記録は、どこにありますか」
問いを投げたのはマルダだった。
いつの間にか、彼女は準備室の入口に立っていた。隣にはニコがいる。鉛の箱を抱えているせいで、彼の腕は赤くなっていた。
「院長、失効を決めた議事録を見せてください。古文書庫にはありませんでした」
「マルダ・セイン、部外者が口を挟む場ではない」
「では、古文書係として発言します。規程を消したのは、誰ですか」
室内の空気が凍った。
白紙の文字は消えず、その下へ新たな一行を加えた。
『仮道は、三十日の公開検分を経て王冠図へ移す』
私は喉の奥で息を整えた。自分の記憶ではない。誰かが昔、この規程を必要とし、書き残した記憶だ。けれど文字を見た瞬間、書架の匂いと、乾いた月墨の粉を指でならす感触が胸の内に流れ込んできた。
「私の地図は違法ですか」
今度は、私が尋ねた。
セドナは答えなかった。代わりに記録官が立ち上がる。
「仮道の記載は許可制です。あなたは院長の許可を得ていない」
「王冠図の白紙に記載する許可は、誰が出すのですか」
「測図院長です」
「では、院長が空白域を調査しないと決めた場合、そこに道があっても、ないことにされるのですね」
「話をすり替えるな」
「すり替えていません。規程に書かれた道を、院長の判断だけで消せるのか聞いています」
声は震えた。膝も、握った指も震えている。それでも、言葉だけは不思議なくらいまっすぐ出てきた。
ディートリヒが背後で動いた。助け舟を出すつもりかもしれない。私はわずかに首を振った。
これは私の仕事の話だ。彼の爵位を盾にしてはいけない。
「答えなさい、セドナ院長」
扉の外から別の声がした。
王都の記録監査官だった。白紙祭の見届け役として来ていた男が、いつの間にか人垣をかき分け、準備室へ入ってくる。
「白紙替えの手続きに、規程の恣意的な不適用は認められていません。記録官、条文を確認してください」
記録官は紙をめくり、顔色を失った。
「……確かに、第七条は残っています」
「ならば、仮道の記載そのものを違法とは呼べない」
その言葉が落ちた途端、外で小さなどよめきが起こった。見習いたちが顔を見合わせ、誰かが「道があるなら、調べればいい」と呟く。
セドナは白紙を睨んだ。
「三十七戸の証言が、すべて同じだとは限らない。記憶は変わる。公爵に買われた証言かもしれない」
「だから、公開検分を行うのです」
私は白紙へ近づいた。
「今ここで正式な地図にしろとは言っていません。明日消えるかもしれない線を、消える前に調べてください。記憶が違うなら、違うと記録してください。最初からなかったことにはしないで」
マルダが鉛の箱を開けた。中から帳面が取り出され、ニコが一枚ずつめくっていく。
「三十七人分の家名と、道の曲がり角が書いてある。俺が配達した順番も、覚えてる」
「子どもの記憶など証拠には――」
「子どもだからって、毎日歩いた道を忘れるんですか」
ニコの声は小さい。けれど、白紙に灯った家の印がひとつ明るくなった。
ディートリヒが帳面へ手を伸ばした。その横顔は、安堵よりも苦しさを隠しているように見えた。
「院長。仮道の公開検分を受け入れれば、あなたはこの場で彼女を逮捕できない」
「公爵、私に命令するつもりか」
「命令ではない。規程を読んでいるだけだ」
冷静な答えだった。けれど、彼の手は帳面の端を強くつかんでいた。
監査官はその場で決定を書きつけた。アルヴァン谷への仮道記載を有効とし、白紙替えの対象から除外する。ただし、三十日以内に現地検分を行うこと。王冠図への正式な登録は、検分後に審議すること。
完全な勝利ではない。それでも、白紙に戻されるはずだった土地が、初めて調べる価値のある場所として記録された。
私は筆筒を腰へ戻した。ディートリヒの指が、ほんの一瞬だけ私の手に触れる。
「よくやった」
「公爵に褒められるほどではありません」
「では、私が褒めたかっただけだ」
彼はそう言って、すぐに視線を逸らした。
その表情に、言葉にされていない何かがあった。谷へ戻る道の先に、まだ隠された名前がある。彼はそれを知っている。
白紙の端で、最後の文字が浮かんだ。
『署名者、ディートリヒ・アルヴァン。証言を求める』
彼の顔から、わずかに血の気が引いた。
私はその文字を見つめた。
「公爵。次は、あなたの番です」




