公爵がついた最後の嘘
白紙に浮かんだ署名は、誰かの筆跡をまねたものではなかった。
ディートリヒ・アルヴァン。
見慣れた名前なのに、そこだけ月墨が濁っている。まるで書かれた文字が、自分から罪を認めているようだった。
「記録監査官に呼ばれる前に、話しておく」
ディートリヒは人のいなくなった準備室で言った。窓の外では、白紙祭の灯りが石畳を薄く照らしている。王都へ戻ってから、ずっと彼の隣にあったはずの気配が、今はひどく遠い。
「アルヴァン谷を空白にした申請書には、私の署名がある。セドナ院長が言ったことは、すべて嘘ではない」
「あなたが、谷を消すように頼んだのですか」
「そうだ」
即答だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥に別の記憶が触れた。冷たい金属の匂い。濡れた外套。紙の上で、何度も筆先を止める指。
私は筆筒へ手を伸ばした。
「聞き取りをさせてください」
「必要ない」
「あなたの署名の記憶を、私に」
「イオナ」
初めて、彼が私の名を叱るように呼んだ。その目には怒りではなく、懇願があった。
「これは私の問題だ。君はもう十分に巻き込まれた。仮道の記載を認めさせた時点で、君の仕事は終わっている」
「終わっていません。あなたが本当に谷を消したのなら、私はあなたの証言を地図に残します。あなたが違うのなら、違うと書きます」
「私は君を利用した」
彼は低く言った。
「谷を戻すために、記憶写しの力を持つ君を探した。君が測図院で誰にも認められていないことも知っていた。公爵の依頼なら断れないと思った。君の技術も、君の正義感も、全部利用しただけだ」
言葉がひとつ落ちるたび、灯りが遠ざかる。
「だから、ここで手を引け。明日の審問では、私が君に偽の記憶を描かせたと証言する。そうすれば、君だけは測図院に残れる」
私は彼の前に立った。
「それが、あなたの最後の嘘ですか」
ディートリヒの表情が固まった。
「嘘ではない」
「では、手を出してください」
私は月墨を指先に含ませ、彼の手の甲へ線を引いた。記憶写しは、相手の許しなく深く読めない。けれど彼は拒まなかった。代わりに、指を強く握りしめた。
線の先に、暗い部屋が浮かんだ。
若いディートリヒが、古い申請書の前に座っている。向かいにはセドナがいた。机の上には二枚の紙がある。一枚は谷の空白化を求める書類。もう一枚は、アルヴァン家の印を預ける代わりに、住民の権利と道を守るという誓約書。
「こちらに署名すれば、王都は谷の再調査を認める」
セドナの声がした。
「認めるのは採掘のためだろう」
「星脈石が必要なのです。王国の防壁を維持するために」
「谷の人間を追い出してまでか」
「あなたが爵位を返し、反抗の意思がないと示せば、誰も傷つかない」
若い彼は一枚目を取り上げた。空白化の申請書だった。
しかし、署名したのはそこではなかった。
紙を裏返した余白に、彼は小さく書いていた。
『アルヴァン谷の住民を移送の対象とせず、従来の道と居住権を保全すること』
その下に、自分の名を刻んだ。
セドナは誓約書を受け取ると、笑った。次の瞬間、彼の手から紙を奪い、暖炉の火へ投げ入れる。燃え上がったのは、約束のほうだった。
記憶が途切れ、私は現実へ戻った。
ディートリヒの手を放す。彼は顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。
「あなたは谷を売ったのではない」
「結果は同じだ。署名をしたのは私だ。領主の印を差し出し、谷を守ったつもりになって、結局は誰も守れなかった」
「だから、自分だけが悪者になればいいと思ったのですね」
「君まで、私の失敗を背負う必要はない」
彼の声がかすれた。
「君が私を告発すれば、君は正しい写字生として残れる。公爵に利用された被害者として、測図院も君を切り捨てにくい」
「私の帰る場所を、あなたが勝手に決めないでください」
思ったより大きな声が出た。
「あなたが嘘をついて私を遠ざけても、私はあなたのために残るのではありません。谷にある名前が消されないように、私自身の意思で残るのです」
彼がゆっくり顔を上げた。灰色の瞳に、初めて隠しきれない疲れが見えた。
「……君は、強いな」
「強くありません。怖いです。でも、怖いからって、見えたものをなかったことにはできない」
扉の向こうで足音がした。記録監査官が、次の審問を知らせに来たのだろう。
私は机の上の空白紙を引き寄せた。月墨を筆先へ含ませ、覚えたばかりの部屋を描く。若い彼の署名。燃える誓約書。セドナの指が紙を奪った瞬間。
線はほどけず、黒く残った。
「明日、これを証拠として出します」
「院長は、君の記憶写しを偽造だと言う」
「だから、あなたにも証言してもらいます」
「私は、君を守れないかもしれない」
「一人で守ろうとするから、嘘が増えるのです」
言い終えると、彼の指が私の指先を包んだ。今度は、触れる前にためらうこともなかった。
「すまない」
「謝るのは、全部終わってからにしてください」
「では、約束する。終わったら、君に隠していることをすべて話す」
「それも嘘だったら?」
問いかけると、彼はほんの少し笑った。
「そのときは、君の地図で暴いてくれ」
窓の外で、白紙祭の鐘が鳴った。
明日の審問で返されるのは、ひとつの爵位だけではない。消された署名と、燃やされた約束と、帰れないまま立ち尽くしていた人々の名前だ。
私は筆を握り直した。
そして、彼の手を離さなかった。




