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空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


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15/20

返される爵位、閉じられる扉

 審問室の扉が閉じたとき、イオナはようやく自分の指が震えていることに気づいた。


 王立測図院の最上階。磨き上げられた黒い机の向こうには、院長セドナと三人の評議官が並んでいる。机の上には、谷の地図を写した羊皮紙と、星脈石の採掘予定地を示す古い図面。それから、ディートリヒがかつて提出したという一枚の誓約書が置かれていた。


「結論を申し上げます」


 セドナが淡々と言った。


「アルヴァン公爵領の地図上の空白は、当主が王冠への忠誠を放棄した結果です。王国は、反逆の疑いがある領地を保護する義務を負いません」


「違います」


 イオナは立ったまま答えた。「この誓約書にある署名は、ディートリヒ様のものではありません。古文書庫の改訂前の王冠図と照合すれば、書かれた年にはまだ存在しなかった王印も押されています」


「下級写字生の分際で、王印の真偽まで語るのかね」


「分際で地図を描くことが許されないなら、最初から私たちに記憶を尋ねなければよかったのです」


 声は思ったよりもよく響いた。評議官たちの背後で、傍聴を許された写字生たちが息を呑む。


 そのとき、隣に立つディートリヒが一歩前へ出た。


「署名は私のものではありません。だが、領地を空白にした責任が私にあるという部分だけは、否定しません」


「ディートリヒ様?」


「先日の夜、君に話したことを覚えているだろう。私は、谷を守るために王都へ嘘をついた。父の死後、王冠図から領地を消す命令が届いた。従わなければ、採掘隊は谷へ入り、住民を追い出すと脅された」


 彼は自分の胸元から、折り畳まれた紙を取り出した。


「私は爵位を返上した、と王都へ伝えた。領主がいない土地なら、少なくとも軍を差し向ける理由が減ると思ったからだ。実際には、返上の届けなど受理されていない。だから私は公爵のまま、領民からも王都からも身を隠していた」


 それが、彼の最後の嘘だった。


 自分が領地を捨てたのだと。自分には帰る資格がないのだと。そう思わせれば、イオナたちを危険に巻き込まずに済むと、彼は考えていた。


「なぜ、私にまで隠したのですか」


 問いかけると、ディートリヒはまっすぐこちらを見た。


「君が私を、帰れない男としてではなく、帰ろうとする男として見てくれたからだ。その目に、卑怯な領主の姿を増やしたくなかった」


 胸の奥が痛んだ。怒っているのに、彼がそんなふうに自分を見ていたことが嬉しい。嬉しいのに、今はそれを認める余裕がない。


「私は、卑怯な嘘より、あなたが一人で決めたことのほうが嫌です」


 ディートリヒの目が揺れた。


 評議官の一人が咳払いをした。


「事情は理解した。よって、王国としてはアルヴァン公爵家の爵位を正式に返還する」


 返還。その言葉だけを聞けば、勝利に思えた。


「爵位をお戻しになれば、領地も戻るのですか」


 イオナが尋ねると、評議官は口元だけで笑った。


「領地の帰属は、王冠図が定める。空白域はまだ王国の地図に存在しない。爵位だけを返すのは、王家の寛大さだ」


 つまり、名誉を返して、土地は返さない。


 公爵という肩書だけを首に掛け、故郷へ続く道は閉ざす。セドナが提出した採掘計画を守るための、きれいな処分だった。


「なお、記憶写しの使用許可は本日付で停止する」


 セドナが告げた。「無許可の地名を王冠図へ記入した罪について、正式な調査が必要だ。君は測図院の敷地から出てはならない」


「私の地図が違法だからですか」


「君の地図が、王国にとって都合の悪い記憶を呼び起こしたからだよ」


 その言葉を聞いた瞬間、廊下の奥で大きな音がした。古文書庫の扉に封蝋を押す音だった。マルダの部屋も、旧王冠図の保管庫も、すべて閉じられる。


 ディートリヒの爵位を返した王都は、同時に彼の入るべき扉を一枚ずつ閉めていった。


 帰る場所を返すと言いながら、帰路だけを奪う。


 イオナは窓の外を見た。夕暮れの王都は赤く染まり、その向こうには、まだ地図にない谷がある。


「イオナ」


 ディートリヒが低く呼ぶ。


「私のことは気にするな。君だけなら、測図院から出られる方法がある」


「また一人で決めるつもりですか」


「君を巻き込みたくない」


「もう巻き込まれています。あなたの地図に、私の線を引いたので」


 彼の返事より先に、廊下の扉が外から施錠された。


 鍵の音は、敗北の合図のように静かだった。


 けれど、イオナは机の上の月墨を見た。封じられた部屋の中でも、墨は乾かない。真実を語った記憶があるかぎり、線は消えない。


「扉が閉じたなら、窓から出ればいいのです」


 イオナは小さな窓の向こう、夜になりかけた空を指した。


「地図にない道は、地図の外から始められます」


 ディートリヒは一瞬だけ目を見開き、それから、初めて王都で見せる笑みを浮かべた。


 その夜、封蝋の下で、谷に残るすべての名前を呼ぶための準備が始まった。

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