返される爵位、閉じられる扉
審問室の扉が閉じたとき、イオナはようやく自分の指が震えていることに気づいた。
王立測図院の最上階。磨き上げられた黒い机の向こうには、院長セドナと三人の評議官が並んでいる。机の上には、谷の地図を写した羊皮紙と、星脈石の採掘予定地を示す古い図面。それから、ディートリヒがかつて提出したという一枚の誓約書が置かれていた。
「結論を申し上げます」
セドナが淡々と言った。
「アルヴァン公爵領の地図上の空白は、当主が王冠への忠誠を放棄した結果です。王国は、反逆の疑いがある領地を保護する義務を負いません」
「違います」
イオナは立ったまま答えた。「この誓約書にある署名は、ディートリヒ様のものではありません。古文書庫の改訂前の王冠図と照合すれば、書かれた年にはまだ存在しなかった王印も押されています」
「下級写字生の分際で、王印の真偽まで語るのかね」
「分際で地図を描くことが許されないなら、最初から私たちに記憶を尋ねなければよかったのです」
声は思ったよりもよく響いた。評議官たちの背後で、傍聴を許された写字生たちが息を呑む。
そのとき、隣に立つディートリヒが一歩前へ出た。
「署名は私のものではありません。だが、領地を空白にした責任が私にあるという部分だけは、否定しません」
「ディートリヒ様?」
「先日の夜、君に話したことを覚えているだろう。私は、谷を守るために王都へ嘘をついた。父の死後、王冠図から領地を消す命令が届いた。従わなければ、採掘隊は谷へ入り、住民を追い出すと脅された」
彼は自分の胸元から、折り畳まれた紙を取り出した。
「私は爵位を返上した、と王都へ伝えた。領主がいない土地なら、少なくとも軍を差し向ける理由が減ると思ったからだ。実際には、返上の届けなど受理されていない。だから私は公爵のまま、領民からも王都からも身を隠していた」
それが、彼の最後の嘘だった。
自分が領地を捨てたのだと。自分には帰る資格がないのだと。そう思わせれば、イオナたちを危険に巻き込まずに済むと、彼は考えていた。
「なぜ、私にまで隠したのですか」
問いかけると、ディートリヒはまっすぐこちらを見た。
「君が私を、帰れない男としてではなく、帰ろうとする男として見てくれたからだ。その目に、卑怯な領主の姿を増やしたくなかった」
胸の奥が痛んだ。怒っているのに、彼がそんなふうに自分を見ていたことが嬉しい。嬉しいのに、今はそれを認める余裕がない。
「私は、卑怯な嘘より、あなたが一人で決めたことのほうが嫌です」
ディートリヒの目が揺れた。
評議官の一人が咳払いをした。
「事情は理解した。よって、王国としてはアルヴァン公爵家の爵位を正式に返還する」
返還。その言葉だけを聞けば、勝利に思えた。
「爵位をお戻しになれば、領地も戻るのですか」
イオナが尋ねると、評議官は口元だけで笑った。
「領地の帰属は、王冠図が定める。空白域はまだ王国の地図に存在しない。爵位だけを返すのは、王家の寛大さだ」
つまり、名誉を返して、土地は返さない。
公爵という肩書だけを首に掛け、故郷へ続く道は閉ざす。セドナが提出した採掘計画を守るための、きれいな処分だった。
「なお、記憶写しの使用許可は本日付で停止する」
セドナが告げた。「無許可の地名を王冠図へ記入した罪について、正式な調査が必要だ。君は測図院の敷地から出てはならない」
「私の地図が違法だからですか」
「君の地図が、王国にとって都合の悪い記憶を呼び起こしたからだよ」
その言葉を聞いた瞬間、廊下の奥で大きな音がした。古文書庫の扉に封蝋を押す音だった。マルダの部屋も、旧王冠図の保管庫も、すべて閉じられる。
ディートリヒの爵位を返した王都は、同時に彼の入るべき扉を一枚ずつ閉めていった。
帰る場所を返すと言いながら、帰路だけを奪う。
イオナは窓の外を見た。夕暮れの王都は赤く染まり、その向こうには、まだ地図にない谷がある。
「イオナ」
ディートリヒが低く呼ぶ。
「私のことは気にするな。君だけなら、測図院から出られる方法がある」
「また一人で決めるつもりですか」
「君を巻き込みたくない」
「もう巻き込まれています。あなたの地図に、私の線を引いたので」
彼の返事より先に、廊下の扉が外から施錠された。
鍵の音は、敗北の合図のように静かだった。
けれど、イオナは机の上の月墨を見た。封じられた部屋の中でも、墨は乾かない。真実を語った記憶があるかぎり、線は消えない。
「扉が閉じたなら、窓から出ればいいのです」
イオナは小さな窓の向こう、夜になりかけた空を指した。
「地図にない道は、地図の外から始められます」
ディートリヒは一瞬だけ目を見開き、それから、初めて王都で見せる笑みを浮かべた。
その夜、封蝋の下で、谷に残るすべての名前を呼ぶための準備が始まった。




