ニコの真夜中の配達
封筒の中で鳴った鐘は、イオナの手のひらに乗せた途端、音を止めた。
「開けていいのかな」
ニコが首をかしげる。
「宛名がないのに?」
「だから、私たちに届けられたんだと思います」
イオナが封の端へ指を伸ばすと、黒い三日月の印が淡く光った。月墨と同じ色なのに、どこか冷たい光だった。ディートリヒが彼女の手首をそっとつかむ。
「不用意に触れるな。罠かもしれない」
「罠なら、もう触れています」
言うと、彼は困ったように眉を寄せた。けれど手は離さない。
イオナはその指先のぬくもりを意識してしまい、急に封筒が重くなった気がした。
「公爵さま、イオナを守るなら、先に中身を見せてあげて」
ニコがあっさり言った。
「守ることと、命令することは違うよ」
「……心得ている」
ディートリヒは咳払いをして手を離した。ニコは満足そうに頷き、石小屋の壁に背を預ける。
封を切ると、中から折り畳まれた小さな紙と、銀色の鍵が落ちた。紙には短い文が書かれていた。
『三つ目の鐘が鳴る前に、北の門へ。荷は、忘れられた家の子へ届けること』
下には、谷の地図にない印がひとつだけあった。三十七番目の家を示す黒い点。その横に、イオナの知らない姓が記されている。
「忘れられた家の子って、誰ですか」
「僕だよ」
ニコは壁から背を離した。
「三十七番目の家は、僕の家だった。母さんが死んでから、誰も家の名前を口にしなくなったけど」
その声は平らだった。平らにしなければ、崩れてしまう声だった。
イオナは紙を裏返した。何も書かれていない。だが、月墨を一滴たらすと、見えなかった線が浮かび上がった。小屋から北へ伸びる細い道。途中で三度、沢を渡り、崖の下にある古い石橋を越える。そこから先は、王冠図の空白に飲み込まれていた。
「ニコは、この配達をいつから?」
「冬の終わりから。最初は母さんの知り合いに頼まれたんだ。薬とか、手紙とか。昼に行くと測図院の見回りに見つかるから、鐘が二つ鳴ったあとに出る」
「一人で?」
「道を知ってるのは僕だけだから」
ディートリヒが眉をひそめた。
「子どもを一人で霧の中へ出す理由にはならない」
「じゃあ、公爵さまが代わりに配達する?」
「……」
「できないよね。門の向こうは、公爵さまを嫌ってる人もいるから」
ニコの言葉に、空気が固くなる。ディートリヒは否定しなかった。彼が谷へ戻ったとき、歓迎する声ばかりではなかった。領主でありながら谷を消す命令を受け取った男。その記憶は、住民の胸から消えていない。
イオナは銀の鍵を拾い上げた。鍵の持ち手に、三十七という数字が刻まれている。
「今夜の荷は、何ですか」
「見ればわかるよ」
ニコは石小屋の隅に置かれた古い鞄を指した。蓋を開けると、布に包まれた小箱が入っている。小箱の中には、干した薬草、薄い蝋燭、そして子どもの靴下が一足あった。
靴下の片方には、青い糸で名前が縫われている。
『エルナ』
「誰の子ですか」
「僕の妹。八年前に、母さんと一緒に谷を出たことになってる」
「なってる?」
「本当は、出ていない。病気で歩けなくなって、三十七番目の家の地下に隠れてた。役人が家を数えに来た日、母さんは妹を抱いて坑道へ逃がしたんだ」
ニコは小箱を閉じた。
「そのあと、二人とも戻らなかった。だから僕は、まだどこかで待ってるかもしれない人へ、荷物を届けてる」
イオナの胸が締めつけられた。配達とは、物を運ぶことではない。ここにいると伝えるための、小さな証明なのだ。
ディートリヒが低い声で尋ねた。
「妹が生きていると、誰から聞いた」
「手紙が来るんだ。毎月、同じ夜に。差出人は書かれてない。でも、母さんしか知らない呼び方が使われてる」
「その手紙は?」
「全部、届けた。返事も届けたよ。返事を書いたのは僕だけど」
ニコは照れたように笑った。寂しさを隠す笑顔ではなく、誰かとの約束を守れている子どもの顔だった。
遠くで、一つ目の鐘が鳴った。
霧が谷の底からせり上がり、月明かりの道を白く覆っていく。イオナは小箱を抱えた。ディートリヒは迷いなく鞄を肩にかける。
「私が持つ」
「公爵さまが荷物持ちをするの?」
「今夜だけは、君の配達人になる」
ニコが目を丸くした。
「じゃあ、迷ったらどうする?」
「ニコに聞く」
「偉そうにしない?」
「しない」
「道を間違えたら?」
「君の判断に従う」
ニコはようやく笑った。
「それなら、連れていってあげる」
三人は小屋を出た。イオナが紙の上の道をなぞると、月墨の線が霧の中で淡く光った。ニコは光を頼りにせず、木の幹に残る傷、石の欠け方、風の匂いを読みながら歩いていく。
しばらく進むと、道の脇に小さな包みが置かれていた。誰かが途中で落としたらしい。ニコは足を止め、包みを拾う。中には乾いたパンと、赤い糸で結ばれた紙片が入っていた。
「これも配達?」
イオナが聞くと、ニコは首を振った。
「違う。これは、僕への返事だ」
紙片を開くと、震える字で一行だけ書かれていた。
『エルナは、まだ鐘の音を覚えている』
次の瞬間、北の霧の向こうで、二つ目の鐘が鳴った。
ディートリヒが顔を上げる。
「急ごう。三つ目が鳴る前に」
ニコは包みを胸へ抱き、走り出した。イオナもその背を追う。隣ではディートリヒが歩幅を合わせている。彼の手が一度、イオナの手の甲に触れた。
「離れるな」
「はい」
霧の奥から、かすかに鉄の匂いが漂ってきた。月墨の道が途切れる場所に、誰かが高い門を立てたのだ。
その門の向こうから、三十七番目の家へつながるはずの鐘が、まだ鳴らずに待っていた。




