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空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


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7/20

嘘の地図を消さないで

 森の奥から聞こえた声を追い、光る道を北へ進んだ。


 道は木々の間を抜け、崖沿いの細い斜面に続いていた。月墨で描かれた線は、朝の光を受けても消えなかった。けれど一歩先の地面は霧に覆われ、どこまで道があるのか見えない。


「この先に、人がいるんですか」


 イオナが尋ねると、ニコは頷いた。


「昔はね。境界を見張る番人の家があった。今は誰も住んでいないって、地図には書いてあるけど」


「地図には、ね」


 ディートリヒの声に、わずかな皮肉が混じった。


 霧の向こうに、石を積んだ小さな建物が現れた。屋根は半分落ち、扉には王立測図院の印が赤い塗料で描かれている。その下に、誰かが爪で削った文字が残っていた。


『ここに道はない』


 イオナが文字へ触れた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き込んだ。


 ――道はある。けれど、あると言えば家を失う。


 ――ないと言えば、子どもたちは谷を出られる。


 ――だから、嘘を書いた。


「誰かの記憶です」


 指を離しても、声の残響が消えない。


 石小屋の奥から、杖をついた女が姿を見せた。白い髪を布でまとめ、古い測量外套を肩にかけている。驚いた様子はなく、ただイオナの手にある月墨の瓶を見た。


「あんたが、記憶を写す娘かい」


「ご存じなんですか」


「森は、忘れる前に教えてくれる。あたしはオルナ。最後の境界番だった」


 オルナは三人を小屋へ招いた。床板を一枚外すと、油布に包まれた羊皮紙が出てきた。広げられた紙には、アルヴァン谷の古い地図が描かれている。


 谷の中央には家々が並び、森から北の岩場へ道が伸びていた。イオナが知っている王冠図とは、まるで違う。王冠図では、そこは白い空白だった。


「これは嘘の地図だよ」


 オルナは言った。


「八年前、測図院の役人が置いていった。谷の家も道も消して、北の岩場だけを鉱脈として描いた地図さ」


 ディートリヒの目が、紙の赤い線へ向いた。赤線は無人の土地を囲むように引かれ、その内側に小さな星印がいくつも並んでいる。


「星脈石の採掘予定地……」


「そうだよ。人が住んでいると知れれば、採掘の許可が下りない。だから役人は、谷を空っぽにした」


 イオナは地図を見つめた。怒りより先に、筆を持つ手の震えを感じた。


「どうして、こんなものを残したんですか。証拠になるのに」


「残したんじゃない。消せなかったんだよ」


 オルナは地図の端を指した。そこには、黒い墨で書かれた家名がいくつもあった。ところどころ上から赤線が引かれているが、文字は完全には消えていない。


「あの役人は、あたしに家の数を聞いた。あたしは三十七と答えた。けれど紙には三十六と書かれた。ひとつ、測量士の妹が住んでいた家を隠したんだ」


「なぜですか」


「その家の裏に、古い坑道があったからさ」


 オルナの記憶が、地図から立ち上がった。赤い外套の男たち。星印を確かめる手。崖下へ運ばれる箱。抗議する村人に向けられた、王立測図院の印章。


 その中に、若いディートリヒの姿があった。


 イオナは息を止めた。彼は領民たちの前に立ち、何かを受け取っている。折りたたまれた命令書だった。彼の顔は今より若く、ひどく疲れていた。


「あなたは、あのときここに……」


「いた」


 ディートリヒは否定しなかった。


「父が倒れ、私が代理で署名を受け取った。役人たちは、王都の調査だから従えと言った。私は領民を別の場所へ移せば守れると思った」


「でも、守れなかった」


「守るどころか、地図から消す手伝いをした」


 彼の声には、長いあいだ自分を裁き続けた人の響きがあった。


 イオナは、地図の赤線を見た。嘘は確かに、彼の手を通って谷へ入ったのだろう。けれど、この地図を消してしまえば、誰が何をしたのかも消える。


「ディートリヒさま。これを、燃やさないでください」


「燃やすつもりはない」


「今、そういう顔をしていました」


 彼は少しだけ目を見開き、それから苦く笑った。


「君には、隠し事ができないな」


「記憶を写すと、隠されたものほど重く残ります」


 イオナは月墨を筆に含ませ、嘘の地図の上へ薄い紙を重ねた。オルナに、あの日の順番を話してもらう。誰が来て、どの家を数え、どの道を消したのか。言葉が増えるたび、月墨の線が紙の上に浮かんだ。


 消された三十七番目の家。その裏手から伸びる古い坑道。坑道は北の境界門へ通じている。


 そして地図の余白に、見覚えのない文字が浮かんだ。


『白紙替えの前に、門を閉じよ』


 誰の命令かは、途中で墨が削られていて読めない。ただ、文末には測図院の公印が押されていた。


「門を閉じるための地図だったんだ」


 ディートリヒが言った。


「谷を消したのは、採掘のためだけではない。誰かが、境界門の向こうへ人を通したくなかった」


 オルナは首を振った。


「違うよ。通したくなかったんじゃない。戻ってこられる道を、なくしたかったのさ」


 その言葉に、イオナの胸が痛んだ。隣に立つ公爵も、帰れないと呼ばれている。彼は自分の帰路を失っただけではなく、帰路を失う人々を生み出したと思い込んでいるのだ。


 イオナは筆を置き、彼の袖をつまんだ。


「この地図は嘘です。でも、嘘をついた人と、嘘にされた人の記憶は本物です」


「……私も、描き直せると思うか」


「はい。少なくとも、あなたが見なかったことにしないなら」


 ディートリヒはしばらく黙っていた。やがて、彼の指が地図の端に触れる。


「では、消さない。私の過ちも、谷の名前も」


 外で、森の奥へ伸びた光の道が一度だけ明滅した。北の境界門へ続く線の先に、新しい小さな印が浮かぶ。


 ニコが身を乗り出した。


「門のところに、誰かが荷物を置いたみたい」


 近づいてみると、濡れないよう油紙で包まれた小さな封筒だった。宛名はなく、表には夜更けを示す黒い三日月が描かれている。


 オルナはそれを見て、低く呟いた。


「真夜中の配達だね。まだ、あの子は道を覚えているらしい」


 イオナは封筒を受け取った。紙の中から、かすかな鐘の音がした。


 帰る場所を消した地図の先で、帰路を知る誰かが、今も荷物を届けようとしている。


 その夜、三人は境界門へ向かうことになった。

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