月墨を作る森
森へ入ると、朝の霧は木々の根元に沈んだ。
見上げても、空は枝の隙間から細くしか見えない。葉は青黒く、風が通るたび、銀色の裏面をひるがえした。足元には濡れた苔が広がっているのに、どこにも鳥の声がしない。
「静かすぎませんか」
イオナが言うと、先を歩いていたニコが振り向いた。
「月墨の森だからね。名前を忘れたものは、音も立てなくなるんだ」
「そんな話、聞いたことがありません」
「聞いたことがある人が、もう少ないからだよ」
少年は枝を払い、細い道を進んだ。道と呼べるのは、踏まれた土がわずかに暗くなっているからである。イオナの手にした地図では、昨夜浮かんだ線がその道に沿っていた。けれど線は森の入口で薄くなり、奥へ進むほど途切れ途切れになる。
ディートリヒは、イオナのすぐ後ろを歩いていた。谷を出てから、彼は何度も地図と周囲を見比べている。公爵の身分なら、誰かに案内させれば済むことなのに、今日は自分で枝を折り、ぬかるみを確かめていた。
「公爵さま、靴が泥だらけ」
「君も同じだ」
「私は下級写字生ですから、泥のついた靴を履く機会も多いんです」
「私も今日から、そういう機会が多い領主になる」
冗談にしては、彼の声は静かだった。
しばらく進むと、木々の間に崩れかけた石小屋が現れた。屋根の上には、月の形をした穴がいくつも開いている。壁には黒ずんだ文字が残っていた。
『月のある夜にのみ、森は道を返す』
イオナは文字の下に指を添えた。乾いた石の奥から、かすかな記憶が伝わってくる。大きな鉢を火にかける音。すり鉢を回す音。誰かが、子どもに言い聞かせている。
――月墨は、月を混ぜるのではない。月の下で、忘れられなかったものを溶かすのだ。
「ここで月墨を作っていたんですね」
「アルヴァン家の記録には、そうある」
ディートリヒが革鞄から古い紙片を出した。端が焼け、半分しか残っていない。そこには材料の名が並んでいた。月明かりを含む苔、雪解け水、名持ち樹の灰。それから、最後にひとつ。
『作る者が、帰りたい場所を思い出すこと』
イオナはその一文を読み、ディートリヒを見た。
「材料ではないですね」
「昔の職人は、材料より大切なものを最後に書いたらしい」
「帰りたい場所を思い出せない人には、作れない?」
「あるいは、帰る場所がない人には」
その言葉のあと、森がさらに静かになった。
小屋の裏手には、月光を溜めたような苔があった。夜ではないのに、葉の間に淡い青白い光が残っている。ニコは喜んで駆け寄ったが、ディートリヒが腕を伸ばして止めた。
「全部は採るな。根を残す」
「知ってるよ。森が死んだら、来年は作れない」
ニコは小さな刃物で苔をひと房ずつ切り取った。イオナも手伝おうとして、光る葉に触れる。すると、耳の奥でいくつもの声が重なった。
雨の夜に帰ってきた父。石橋のたもとで待っていた姉。谷を出たまま戻らなかった弟。どれも名前を持たない声だったが、そこにいた人の温度だけははっきりしていた。
「イオナ!」
強く腕を引かれ、彼女は後ろへよろめいた。直前まで立っていた場所に、細い枝が落ちている。上を見れば、枯れた枝が幹から離れていた。
「怪我は?」
「ありません。ディートリヒさまの手が……」
彼の手の甲に、枝で切った赤い線が走っていた。イオナは鞄から布を取り出し、傷を押さえる。
「これくらいなら」
「契約に、案内役は無理をしないことと書きました」
「ニコが追加した条文だな」
「あなたも契約を守ってください」
布を結ぶ指先が、彼の手の熱に触れた。公爵の手は、羊皮紙を扱うだけの手ではなかった。枝を払い、道を探し、長いあいだ領民を守ろうとしてきた手だ。
ディートリヒは目を伏せたまま、低く言った。
「君は、誰にでもこうするのか」
「怪我をした人がいれば」
「そうか」
なぜか、少し残念そうに聞こえた。
小屋の中で、三人は月墨作りに取りかかった。苔を石鉢ですり、雪解け水を少しずつ加える。名持ち樹の灰は、暖炉の隅に残ったものをニコが見つけた。最後に、帰りたい場所を思い出す。
イオナは、王都の写字室を思い浮かべようとしてやめた。そこは帰る場所ではない。代わりに、幼いころ母が窓辺で紙を乾かしていた小さな家を思い出した。紙の匂いと、窓を叩く雨。母の声はもう細部まで思い出せない。それでも、あの部屋へ戻りたいと思った。
隣では、ディートリヒが目を閉じていた。
「あなたは?」
「……谷の鐘が聞こえる場所だ」
「アルヴァン公爵領ですか」
「領地という名前を失っても、鐘の音だけは覚えている」
彼がそう言った瞬間、鉢の中の墨が淡く光った。黒ではなく、夜空に青を溶かした色だった。
イオナは筆を浸し、石小屋の床に線を引いた。墨は土に染み込まず、細い光となって伸びていく。小屋から森を抜け、谷の集会所へ向かう道。その線の途中に、いくつもの小さな丸が浮かんだ。
「家の跡です」
ニコが息をのんだ。
「昔、森番たちが住んでいたところ。僕は一度も見たことがない」
丸のひとつに、文字が浮かんだ。かすれてはいたが、イオナには読めた。
『リゼルの家』
人の名前なのか、家の名前なのかは分からない。けれど、誰かがそこへ帰るための記憶が残っている。
そのとき、石小屋の壁の裏で金属音がした。ディートリヒが石を動かすと、地面に埋められた細い杭が現れた。王立測図院の印が刻まれている。杭の脇には、森の奥へ続く赤い線が引かれていた。
「これは、測量杭です」
イオナの声が震えた。
「森を地図へ戻すためのものではない。切り分けるための線です」
ディートリヒは杭を抜かず、刻印を紙へ写し取った。彼の表情から、さきほどまでの穏やかさが消える。
「月墨を採る森を、誰かが別の目的で測っていた」
「星脈石の採掘地と、関係があるのでしょうか」
「まだ分からない。だが、分からないままにはしない」
完成した月墨を瓶へ移すと、森の奥で風が鳴った。今度は、確かに道の音だった。光る線が一本、木々の間を走り、まだ見えない北の境界へ伸びていく。
イオナは瓶を胸に抱えた。
消された土地を描き直すには、まず描くための墨がいる。けれど墨を作るには、帰りたい場所を失っていないと証明しなければならない。
森はその証明を、三人の手に返してくれた。
そして光る道の先から、誰かの声がした。
「その地図を、嘘のままにしないで」




