公爵の契約書には帰路がついている
朝、集会所の窓を開けると、霧の向こうで三十七本の銀線が薄く光っていた。
昨夜、イオナが聞き取った声は、ひと晩たっても消えていなかった。白い花の斜面、青く濡れる岩、風の通り道。村人たちがそれぞれに語った景色が、ひとつの地図の上で重なっている。
ただし、北端へ伸びた線だけは、赤い蝋の落ちたところで途切れていた。
「その蝋は、王立測図院の封蝋です」
イオナが言うと、マレナは帳面を胸に抱いた。
「なら、あの記録抹消の命令も、王都から来たものかい」
「まだ断定はできません。けれど、自然に道が消えたのではないことは、もう疑えないと思います」
集会所の中に、低いざわめきが広がった。昨日まで、誰もが自分の記憶を疑っていた。道を忘れたのは自分のせいだと、名前を思い出せないのは年のせいだと。それなのに、白紙にされた記録が、確かに誰かの手で作られたものなら。
怒りは、霧よりもゆっくりと村を満たした。
「だからこそ、急がなければならない」
ディートリヒが地図の横に立った。いつの間にか外套を着ており、腰には細い革鞄を下げている。
「白紙替えまで、あと十日ほどしかない。儀式が始まれば、王冠図の未確定部分はすべて白紙に戻される。今ここにある線も、君が聞いた声も、証拠として残らない」
イオナは筆を握り直した。
「それなら、正式な調査として認めてもらう必要があります」
「王立測図院は、君を正式な調査員として派遣したことにしないだろう」
「では、あなたが依頼人になってください」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
ディートリヒが目を細める。
「私に雇われるのか」
「雇われるのではなく、契約します。あなたはこの谷の当主として、住民の記憶を証言として集める。私は写字生として、それを地図にする。どちらかが欠ければ、昨日の三十七本の線は完成しません」
彼はしばらく黙っていたが、やがて革鞄から折りたたまれた羊皮紙を取り出した。
「すでに書いてある」
「……用意がいいですね」
「君なら、そう言うと思った」
羊皮紙には、細かな文字が並んでいた。依頼の目的、調査の期限、必要な費用。ディートリヒが案内役と証人を務め、イオナは語られた記憶を改変せずに記録すること。集めた記録と地図の所有権は、アルヴァン公爵家ではなく、証言した住民たちにあること。
イオナは一行ずつ目を走らせた。
「ここです」
彼女は、最後から二つ目の条文を指した。
「『調査が失敗した場合、依頼人は写字生を王都まで安全に送り届ける』。どうして、最初から失敗する場合のことを?」
「帰路のない場所へ君を連れてきたのは私だ」
ディートリヒは淡々と言った。
「なら、帰る道を用意するのも私の責任だ」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
帰る道。イオナは王都の仕事場を思い浮かべた。誰も彼女の力を正しく見ようとしない、狭い写字室。戻ろうと思えば戻れるはずなのに、そこを自分の居場所だと呼ぶことは、もうできなかった。
「この条文は、失敗した場合だけですか」
「成功した場合も、君が望むなら同じだ。公爵家に残ることを条件にはしない」
「あなたは、私を連れて帰りたいのですか。それとも、帰したいのですか」
問いかけると、彼の指が羊皮紙の端で止まった。
「君が選んだ場所へ帰れるようにしたい」
その答えは、契約書のどの条文よりもまっすぐだった。
イオナは赤い蝋の欠片を見た。誰かが名前を消すために使った封蝋。対して、目の前の契約書には、名前を残すための条文がある。
「一つ、追加してもいいですか」
「もちろんだ」
彼女は月墨の小瓶を開き、余白に筆を入れた。
『証言した者の名前は、本人の許可なく削除しない。記憶に誤りがあると判断した場合も、誤りとして記録を残す』
書き終えると、マレナが息をのんだ。
「それは、私たちのための約束かい」
「はい。正しい名前だけが残るのではなく、思い出せないことも含めて、皆さんがここにいた証拠にします」
マレナは何度も頷き、帳面の最後にある三十七人の名前を開いた。赤い蝋で封じられていた頁を、今度は自分の手で押さえる。
「なら、証人になります。村の記録係として」
ディートリヒは契約書の下部に署名した。流れるような筆跡の最後に、アルヴァン家の印章が押される。続いてイオナも、自分の名を書いた。
その瞬間、羊皮紙の余白に淡い光が走った。
文字の下から細い線が浮かび、集会所の印を出発して北へ向かった。村の外れ、曲がった木、石垣、そして霧の向こうにある深い森へ。線の先には、まだ地名がない。
「この森を越えれば、月光を含んだ苔が採れる」
ディートリヒが言った。
「月墨を作れる森ですか」
「昔はそう呼んだ。今は、名前を覚えている者も少ない」
ニコが横から身を乗り出した。
「僕も行く。北端の境界門まで案内できる」
「危険です」
「危険だから、配達人が必要なんだよ。森の向こうには、まだ手紙を待っている人がいるかもしれない」
イオナは少年の顔を見た。昨日、妹の名を思い出せなかったミナが、青い屋根の家の窓からこちらを見ている。
「では、契約に加えましょう。ニコは案内人。ただし、無理をしないこと」
「書いておいて。公爵さまはすぐ無理をするから」
「私が?」
ディートリヒが眉を上げ、初めて少しだけ困った顔をした。集会所に笑い声が起こる。三十七人の声の中に、新しい声がひとつ混ざった。
出発の準備を終え、イオナは契約書を二つに分けた。一部をディートリヒへ、一部を自分の鞄へ入れる。
「なくさないでください」
「君こそ」
「私は地図をなくしません」
「地図のことではない」
彼が見ているのは、鞄の中の契約書だった。
イオナは返事をせず、森へ続く光の線を見た。帰路は、まだ細く、頼りない。それでも白紙ではない。
誰かに消される前に、二人で歩いて、名前を与える。
その最初の一歩を、朝の霧の中へ踏み出した。




