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空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


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谷に残る三十七の声

 村の入口をくぐった途端、イオナの耳に、いくつもの声が重なって届いた。


 おかえり。誰だい。道はどこから来た。あの子は無事かい。


 ひとつひとつは小さな声なのに、谷を囲む霧が拾い上げて、何度も反響させている。鐘楼のない村に、見えない鐘が鳴っているようだった。


「ニコ、妹さんはどこですか」


 イオナが尋ねると、少年は村の奥にある青い屋根の家を指した。扉が開き、十歳ほどの少女が飛び出してくる。


「お兄ちゃん!」


 ニコは少女を抱きしめた。少女は笑いながら何かを言ったが、その名を呼ぶことはなかった。


 イオナは胸の奥が冷えるのを感じた。目の前にいるのに、名前だけが存在しない。名前を失うということは、地図から家を失うよりもひどいことかもしれない。


「この子の名前は、ミナだ」


 ディートリヒが低く言った。


 少女が顔を上げる。


「どうして知ってるの?」


「昔、君の家で蜂蜜菓子をもらった。ミナは、焼く前の生地をつまみ食いして叱られていた」


「……そうだった」


 少女の瞳に涙が浮かんだ。けれど、彼女自身の口から名前が出てくることはなかった。


 村の中央には、古い集会所があった。壁に掛けられた木札は三十七枚。そのうち二十枚ほどは、文字を削られた跡だけを残している。


「村に住んでいるのは、三十七人です」


 背の曲がった女性が言った。白い髪をひとつに束ね、手には煤けた帳面を持っている。


「私はマレナ。昔は村の記録係でした。王冠図から名前が消えたあとも、家々のことを書き留めてきたんです」


「見せてください」


 イオナが手を伸ばすと、マレナはためらった。


「読めない頁があるよ。文字を見ようとすると、頭の中から逃げてしまう」


 帳面を開く。家の位置、井戸の深さ、収穫の日。どれも途中で線が途切れ、名前の欄だけが白く抜け落ちていた。紙そのものが、そこに何も書かれていなかったふりをしている。


 イオナは集会所の床に羊皮紙を広げた。


「ひとりずつ、覚えていることを聞かせてください。正しいかどうかを証明しなくていい。あなたが本当に見た景色を、私に教えてください」


 最初に来たのは、井戸のそばに住む老人だった。


「春になると、東の斜面に白い花が咲く。花の下には、昔の道がある。孫の手を引いて、毎年そこへ行った」


 月墨が筆先で光った。斜面から集会所へ、細い線が伸びる。


 二人目は、染物屋の女だった。


「雨の前には、南の岩が青く濡れる。あの岩の裏を回れば、薬草の生える沢へ行ける」


 三人目は、パン職人だった。


「夜明けに一度だけ、谷の外から風が入る。風の通り道に立てば、遠くで鐘が聞こえる」


 四人目、五人目。声を聞くたび、紙の上に道が増えていく。


 イオナはひとつも急がなかった。誰かの記憶に合わせて線をつなぐのではなく、それぞれの声が重なる場所を探した。白い花の斜面は染物屋の沢へ続き、沢はパン職人の風の通り道と交差した。村人たちが長い年月をかけて使ってきた道が、地図の上でようやく形を取り戻していく。


 三十人目の声を聞き終えたころ、外は夕暮れになっていた。月墨の光が窓を青く染め、ディートリヒは黙って薪をくべていた。公爵が火の番をする姿は、王都で見るよりずっと自然だった。


「公爵さまも、記憶を聞かせてください」


 イオナが言うと、彼は薪を置いた。


「私の記憶は、地図を歪める」


「どうしてですか」


「私が帰りたい場所を、谷そのものと取り違えるからだ」


 その横顔には、霧の中で道を選べなかった男の寂しさがあった。イオナはそれ以上求めず、三十一人目の椅子を引いた。


 最後の声は、集会所の隅にいた少女から聞いた。ミナだった。


「お兄ちゃんが帰ってくる道を覚えてる。青い屋根の家から、石垣を三つ越えて、曲がった木の下を通るの。でも、その道の先に何があるかは思い出せない」


 イオナが線を引くと、少女の家から村の外へ向かう道が現れた。だが、谷の北端で線は突然途切れた。


 その途切れた場所に、赤い蝋が落ちていた。


 マレナが震える手で帳面の最後の頁をめくる。そこには、三十七人分の名前が並んでいた。ミナの名もある。けれど頁の下部には、別の文字が押しつぶされるように残っていた。


 ――星脈石採掘予定地。住民退去。記録抹消。


 ディートリヒが立ち上がった。


「やはり、災害ではなかった」


 その声に、集会所の三十七人が息をのむ。


 イオナは地図を見下ろした。三十七の声が、三十七の家と、ひとつの途切れた道を紙の上に残している。


「この道の先を知っている人はいますか」


 誰も答えなかった。しばらくして、マレナが顔を上げる。


「ひとりだけ、知っているはずです。谷の境界門を守っていた人が……まだ生きているなら」


 窓の外で、消えたはずの鐘が一度鳴った。


 ディートリヒがイオナの隣に戻り、地図の途切れた線を指でなぞる。


「明日、北端へ行く」


「はい」


「怖くはないのか」


 イオナは三十七人の顔を見渡した。名前を奪われても、家の匂いも、道の曲がり方も、誰かの帰りを待つ気持ちも、ここに残っている。


「怖いです。でも、聞こえた声をなかったことにはできません」


 彼は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに笑った。


「その頑固さを、私は信じる」


 夜の地図の上で、三十七本の銀線が淡く輝いた。空白だった谷に、帰るための声が残った。

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