↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

迷い子の道標

 羊皮紙の上で、二本に分かれた道が震えていた。


 片方は北へ伸び、アルヴァンの名をかすかに帯びている。もう片方は、地図の縁からこぼれ落ちるようにして、黒い裂け目の向こうへ消えていた。


「その先へ行くな」


 ディートリヒは、イオナの手から銀針を取り上げた。


「エルゼンへ続く道だ。今の私たちには、あれをたどる余裕がない」


「でも、道が出たということは、誰かがそこにいるのではありませんか」


「いる。だから危険なんだ」


 公爵の指が、羊皮紙の端を強く押さえた。白い紙に、指先から細い霧がにじむ。


「あの谷では、忘れられた人間ほど道に呼ばれる。呼ばれた者は、自分が帰りたい場所を見せられる。けれど、その場所が本当に帰るべき場所とは限らない」


 イオナは、勝手に浮かんだ文字を見つめた。エルゼン。その名は墨ではなく、遠い誰かの願いで書かれているようだった。


「なら、まずアルヴァンへ向かいましょう。領民の記憶を集めるなら、帰れる人から会うべきです」


 ディートリヒは驚いたように目を瞬かせ、それから小さくうなずいた。


「あなたは、意外に頑固だな」


「公爵さまに言われたくありません」


 院長室を出た二人は、北門へ急いだ。王立測図院の裏口から外へ出ると、王都の石畳には夜明け前の冷気が降りていた。ディートリヒは旅装に着替えていたが、イオナは仕事着のままだ。肩から測図用の筒を下げ、月墨と銀針を胸元にしまう。


 門衛には、公爵の身分証だけが効いた。イオナの名を見た若い兵士が、怪訝そうに眉を寄せる。


「測図院の方が、こんな時間に北へ?」


「王命に関わる調査だ」


 ディートリヒが答えると、兵士はそれ以上聞かなかった。王都では、地図に載っている言葉の方が、人の顔よりも信用される。


 門を出て一刻ほど歩くと、舗装された道は唐突に途切れた。そこには古い道標が立っていた。石の柱に、左右を示す矢印が三つ。けれど地名の部分だけが、何度も削られている。


「アルヴァンは、どちらですか」


 イオナが尋ねると、ディートリヒは右を指した。


「本来なら、こちらだ。北の尾根を越えて、リュート村を通る」


「本来なら?」


「道があるなら、だ」


 右の道は霧の中で二本に分かれ、どちらも同じ草の倒れ方をしていた。羊皮紙を開いても、線は薄く揺れるばかりだ。名前のない道は、まだ地図の上で道になっていない。


 そのとき、霧の奥で鈴が鳴った。


 一度。間を置いて、二度。


「誰かいます」


 イオナが声をかけると、丈の高い草むらから少年が現れた。十三歳くらいだろう。擦り切れた外套を着て、片手に小さな籠、腰に鈴をつけている。頬には泥がついていたが、目だけは妙にしっかりしていた。


「王都から来た写字生?」


「そうです。あなたは?」


「ニコ。谷の配達人。パンを届けに来たんだけど、帰り道がなくなった」


 少年は道標を振り返った。


「この石は、迷い子の道標だよ。家を忘れた子が触ると、帰る方を向くんだ」


「あなたは、どちらへ帰るのですか」


 ニコは答えなかった。籠の中には、白い布に包まれたパンが三つ入っている。布の端に、赤い糸で小さな家の形が縫い取られていた。


「覚えていることを話してください」


 イオナは膝をつき、月墨を筆先に含ませた。


「道を描くには、本当の記憶が必要です。どこを通って、誰にパンを届けるのか」


「西の坂を下りて、折れた樫の木を越える。それから石が三つ並んだ川を渡る。川のそばに、青い屋根の家がある。そこに妹がいて、朝は必ず、焼きたてのパンを半分にしてくれる」


 ニコの声に、ためらいはなかった。


 イオナが羊皮紙へ線を引くと、月墨が淡く光った。西の坂、折れた樫、三つの石。語られた景色がひとつずつ浮かび、消えていた道が細い銀線になって現れる。


 だが、青い屋根の家を描こうとしたところで、ニコの指が止まった。


「妹の名前は?」


 イオナが静かに尋ねる。


「……わからない」


 少年の顔から血の気が引いた。


「顔も、声も思い出せる。でも名前だけ、誰かに削られたみたいに出てこない」


 ディートリヒが道標を見上げた。石柱の根元には、赤い蝋のかけらが残っている。王立測図院の調査印に似ていた。


「道を消すだけではない。名前まで消しているのか」


 その声に、怒りが混じった。


 イオナは書きかけの線を止めた。妹の名を知らないまま、青い屋根の家だけを地図に載せることはできる。けれど、それでは家に住む人がまた空白になる。


「名前は、あとで取り戻します」


 彼女は家の輪郭の横に、地名ではなく、ニコの記憶にあった赤い糸の印を描いた。


「今は、ここに誰かが帰る場所があることだけを、消えない形にします」


 銀線が道標から霧の奥へ伸びた。二本に分かれていた道のうち、左の道だけが、はっきりと朝の方角を向く。


 ニコが息をのんだ。


「こっちだ。妹の家の匂いがする」


 少年は走り出しかけたが、ディートリヒが肩をつかんだ。


「先に私たちが行く。空白域の道は、記憶を持たない者には牙をむく」


「公爵さまも、迷うの?」


「何度も迷った」


 答えた公爵の横顔は、霧よりも寂しかった。


 三人は、銀線の上を歩き始めた。やがて霧の向こうに、屋根の低い家々と、消えかけた鐘楼が浮かび上がる。村の入口には、もうひとつ古い道標が立っていた。


 削られた文字の下に、誰かが爪で新しい印を刻んでいる。


 ――迷った子は、声のある方へ。


 ニコが駆け寄ると、村の奥から女の声が響いた。


「ニコ? 帰ってきたのかい」


 少年は振り返り、泣きそうな顔で笑った。


「帰れた。道を描いてくれた人がいる」


 村人たちの視線が、一斉にイオナへ集まる。その中に、怯えと期待が同じだけ浮かんでいた。


 ディートリヒが、彼女の隣に立つ。


「ここからが本当の仕事だ、フェルク写字生」


 イオナは筆を握り直した。まだ名前のない家が、村のあちこちにある。白紙替えまで、夜は明けようとしていた。


 それでも、最初の道標はもう、迷い子を見捨てていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。