迷い子の道標
羊皮紙の上で、二本に分かれた道が震えていた。
片方は北へ伸び、アルヴァンの名をかすかに帯びている。もう片方は、地図の縁からこぼれ落ちるようにして、黒い裂け目の向こうへ消えていた。
「その先へ行くな」
ディートリヒは、イオナの手から銀針を取り上げた。
「エルゼンへ続く道だ。今の私たちには、あれをたどる余裕がない」
「でも、道が出たということは、誰かがそこにいるのではありませんか」
「いる。だから危険なんだ」
公爵の指が、羊皮紙の端を強く押さえた。白い紙に、指先から細い霧がにじむ。
「あの谷では、忘れられた人間ほど道に呼ばれる。呼ばれた者は、自分が帰りたい場所を見せられる。けれど、その場所が本当に帰るべき場所とは限らない」
イオナは、勝手に浮かんだ文字を見つめた。エルゼン。その名は墨ではなく、遠い誰かの願いで書かれているようだった。
「なら、まずアルヴァンへ向かいましょう。領民の記憶を集めるなら、帰れる人から会うべきです」
ディートリヒは驚いたように目を瞬かせ、それから小さくうなずいた。
「あなたは、意外に頑固だな」
「公爵さまに言われたくありません」
院長室を出た二人は、北門へ急いだ。王立測図院の裏口から外へ出ると、王都の石畳には夜明け前の冷気が降りていた。ディートリヒは旅装に着替えていたが、イオナは仕事着のままだ。肩から測図用の筒を下げ、月墨と銀針を胸元にしまう。
門衛には、公爵の身分証だけが効いた。イオナの名を見た若い兵士が、怪訝そうに眉を寄せる。
「測図院の方が、こんな時間に北へ?」
「王命に関わる調査だ」
ディートリヒが答えると、兵士はそれ以上聞かなかった。王都では、地図に載っている言葉の方が、人の顔よりも信用される。
門を出て一刻ほど歩くと、舗装された道は唐突に途切れた。そこには古い道標が立っていた。石の柱に、左右を示す矢印が三つ。けれど地名の部分だけが、何度も削られている。
「アルヴァンは、どちらですか」
イオナが尋ねると、ディートリヒは右を指した。
「本来なら、こちらだ。北の尾根を越えて、リュート村を通る」
「本来なら?」
「道があるなら、だ」
右の道は霧の中で二本に分かれ、どちらも同じ草の倒れ方をしていた。羊皮紙を開いても、線は薄く揺れるばかりだ。名前のない道は、まだ地図の上で道になっていない。
そのとき、霧の奥で鈴が鳴った。
一度。間を置いて、二度。
「誰かいます」
イオナが声をかけると、丈の高い草むらから少年が現れた。十三歳くらいだろう。擦り切れた外套を着て、片手に小さな籠、腰に鈴をつけている。頬には泥がついていたが、目だけは妙にしっかりしていた。
「王都から来た写字生?」
「そうです。あなたは?」
「ニコ。谷の配達人。パンを届けに来たんだけど、帰り道がなくなった」
少年は道標を振り返った。
「この石は、迷い子の道標だよ。家を忘れた子が触ると、帰る方を向くんだ」
「あなたは、どちらへ帰るのですか」
ニコは答えなかった。籠の中には、白い布に包まれたパンが三つ入っている。布の端に、赤い糸で小さな家の形が縫い取られていた。
「覚えていることを話してください」
イオナは膝をつき、月墨を筆先に含ませた。
「道を描くには、本当の記憶が必要です。どこを通って、誰にパンを届けるのか」
「西の坂を下りて、折れた樫の木を越える。それから石が三つ並んだ川を渡る。川のそばに、青い屋根の家がある。そこに妹がいて、朝は必ず、焼きたてのパンを半分にしてくれる」
ニコの声に、ためらいはなかった。
イオナが羊皮紙へ線を引くと、月墨が淡く光った。西の坂、折れた樫、三つの石。語られた景色がひとつずつ浮かび、消えていた道が細い銀線になって現れる。
だが、青い屋根の家を描こうとしたところで、ニコの指が止まった。
「妹の名前は?」
イオナが静かに尋ねる。
「……わからない」
少年の顔から血の気が引いた。
「顔も、声も思い出せる。でも名前だけ、誰かに削られたみたいに出てこない」
ディートリヒが道標を見上げた。石柱の根元には、赤い蝋のかけらが残っている。王立測図院の調査印に似ていた。
「道を消すだけではない。名前まで消しているのか」
その声に、怒りが混じった。
イオナは書きかけの線を止めた。妹の名を知らないまま、青い屋根の家だけを地図に載せることはできる。けれど、それでは家に住む人がまた空白になる。
「名前は、あとで取り戻します」
彼女は家の輪郭の横に、地名ではなく、ニコの記憶にあった赤い糸の印を描いた。
「今は、ここに誰かが帰る場所があることだけを、消えない形にします」
銀線が道標から霧の奥へ伸びた。二本に分かれていた道のうち、左の道だけが、はっきりと朝の方角を向く。
ニコが息をのんだ。
「こっちだ。妹の家の匂いがする」
少年は走り出しかけたが、ディートリヒが肩をつかんだ。
「先に私たちが行く。空白域の道は、記憶を持たない者には牙をむく」
「公爵さまも、迷うの?」
「何度も迷った」
答えた公爵の横顔は、霧よりも寂しかった。
三人は、銀線の上を歩き始めた。やがて霧の向こうに、屋根の低い家々と、消えかけた鐘楼が浮かび上がる。村の入口には、もうひとつ古い道標が立っていた。
削られた文字の下に、誰かが爪で新しい印を刻んでいる。
――迷った子は、声のある方へ。
ニコが駆け寄ると、村の奥から女の声が響いた。
「ニコ? 帰ってきたのかい」
少年は振り返り、泣きそうな顔で笑った。
「帰れた。道を描いてくれた人がいる」
村人たちの視線が、一斉にイオナへ集まる。その中に、怯えと期待が同じだけ浮かんでいた。
ディートリヒが、彼女の隣に立つ。
「ここからが本当の仕事だ、フェルク写字生」
イオナは筆を握り直した。まだ名前のない家が、村のあちこちにある。白紙替えまで、夜は明けようとしていた。
それでも、最初の道標はもう、迷い子を見捨てていなかった。




