描けない地図と、描いてはいけない名前
王立測図院の大広間から人が引いたあとも、床には霧の水滴が残っていた。
ディートリヒ・アルヴァン公爵が現れた場所だ。誰かが拭おうとしたらしいが、布を当てるそばから水滴は白い紙片に変わり、風もないのに空白の方角へ滑っていく。
イオナはそれを見つめながら、院長室の前に立っていた。隣では、公爵が腕を組んでいる。つい先ほどまで故郷の谷を歩いていた人とは思えないほど姿勢は整っていたが、外套の裾からはまだ細い霧がほどけていた。
「フェルク写字生。あなたは彼の依頼を受けるつもりですか」
扉の向こうから、セドナ院長の声がした。
「報酬の話をしただけです」
「同じことです。空白域を描く行為は、王冠図への反逆にあたります」
院長室の扉が開く。白い手袋の指先が、イオナの持つ銀色の紙片を指した。
「それを渡しなさい。公爵が持ち込んだ偽造文書として保管します」
「偽造ではない」
ディートリヒが低く言った。
「三百年、アルヴァンは王国の北を守ってきた。領民の納税記録も、街道の修繕記録もある。地図から消えたからといって、過去まで偽物にはならない」
「過去があったことと、現在も存在していることは別です」
「では、現在の領民はどこにいる?」
院長は答えなかった。
答えられないのだ、とイオナは思った。地図の外へ追い出された人々を、王立測図院は数える方法すら失っている。
「明日の白紙替えで、アルヴァンの空白は固定されます」
セドナは淡々と続けた。
「今夜のうちに公爵を王城へ引き渡せば、彼個人の身分だけは保全できるでしょう。余計なことを考えず、写字生としての職を守りなさい」
イオナの胸に、先ほど消された銀線がよみがえった。事実を記録するために描いた道を、余計な線と呼んだ声も。
「職を守るためなら、見えている道を見えないふりをしろと?」
「あなたはまだ若い。正しさだけでは国は動きません」
「正しくない地図で動かされた人は、どこへ行くのですか」
院長の目が細くなった。けれど、横にいる公爵がわずかに息を止めたことの方が、イオナには気になった。
院長室を出ると、ディートリヒは廊下の窓際で足を止めた。夜の王都は石造りの灯りを連ね、どの通りにも名前がついている。道に名前があるだけで、人は迷っても帰ることができる。
「さきほどの契約を、正式な形にしたい」
公爵は懐から小さな革袋を取り出した。中には黒い月墨と、細い銀針が入っている。
「あなたは私の証言を聞き、地図を描く。私は必要な場所へ案内し、あなたが職を失った場合はアルヴァンの地図師として迎える」
「領地が地図にないのに、雇えるのですか」
「爵位も屋敷も、地図に描かれた線だけでできているわけではない」
ディートリヒはそう言ったが、声の奥には疲れがあった。
「ただし、ひとつ頼みがある。私の話を聞くとき、名前をひとつだけ書かないでほしい」
「どの名前ですか」
公爵の視線が、イオナの手元へ落ちる。
「エルゼン」
聞き慣れない名だった。
「谷の中央にある村の名前だ。そこには、地図に記される前から住んでいた人々がいる。だが、あの名は王都が最初に消した。書けば、谷全体の記憶が引きずり出される」
「それなら、なおさら書くべきでは?」
「書いてはいけない」
公爵の返事は早かった。
「エルゼンを思い出した者は、道の向こうへ連れていかれる。戻ってきた者はいない」
それは脅しというより、恐怖を知る人の言い方だった。
イオナは銀針を受け取った。契約の文面を羊皮紙に記そうと、月墨を一滴落とす。
最初に書いた「アルヴァン公爵ディートリヒ」という文字は、淡い光を帯びて定着した。次に「王立測図院写字生イオナ・フェルク」と書くと、墨は少し震えたものの消えなかった。
最後に、依頼の目的を記す。
――アルヴァンへ帰る道を描く。
そこまで書いた瞬間、羊皮紙の中央に黒い裂け目が走った。
「これは……」
裂け目の奥から、誰かの声がした。
帰っておいで。
イオナの手から筆が落ちる。廊下の窓には王都の夜景が映っているのに、耳元には雪解け水と遠い鐘の音が重なっていた。
ディートリヒが、彼女の肩をつかむ。
「聞くな。記憶に触れられる」
「今の声は、誰ですか」
「知らない方がいい」
その言葉と同時に、羊皮紙に新しい文字が浮かんだ。
エルゼン。
イオナが書いていない名前が、墨のにじみとなって広がっていく。
公爵の顔から血の気が引いた。
「だから、書くなと言った」
文字の下で、一本の道が勝手に伸び始めた。王都から北へ、空白の谷へ。けれどその道は、途中で二つに分かれている。
一方はアルヴァンへ。
もう一方は、地図のどこにもない場所へ。
イオナは落とした筆を拾い上げた。描けない地図の上に、描いてはいけない名前がある。その名前を消すべきか、残すべきか、まだ決められない。
ただひとつ分かったのは、明日の白紙替えを待っている時間など、もう残されていないということだった。




