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空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


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白紙から現れた公爵

 地図の上にない場所へは、誰も帰れない。


 王立測図院の大広間に掲げられた王冠図は、王都から伸びる街道も、国境の河川も、山脈の稜線も、細い銀線で余すところなく描いていた。天井近くまである巨大な羊皮紙には、リュミエラ王国のすべてが載っている。少なくとも、載っていることになっている。


 その地図の中央から少し北。アルヴァン公爵領にあたる一帯だけが、ぽっかりと白かった。


 白いのは、紙ではない。月墨を塗ったはずの色が、そこだけ何度描いても定着しないのだ。


「次、イオナ・フェルク」


 試験官の声に呼ばれ、イオナは細い筆を握り直した。下級写字生の制服は肩が合っていない。袖口には、昨夜こぼした墨の跡が残っていた。


 大広間には測図院の役人だけでなく、貴族や商人、王城から来た監督官まで並んでいる。年に一度の公開測図試験。王冠図の空白を埋め、王国の正式な道へつなぐための儀式だ。


 壇上の水盤に月墨を一滴落とす。淡い銀色の液面に、試験用の白紙が浮かんだ。


「記憶写しの課題は、北部街道からアルヴァン領の旧道を描くこと。証言は三名分、すでに用意してある。余計な線を加えないように」


 余計な線。


 その言葉を聞くたび、胸の奥が小さく痛んだ。


 イオナは白紙に筆先を置いた。目を閉じると、昨夜聞いた老人の声が戻ってくる。


 ――石橋を渡ったら、右に白樺が三本。真ん中の木には、子どもが結んだ赤い布がある。


 ――坂を上りきる前に鐘が聞こえる。冬でも鳴る。谷の風が鳴らす鐘だ。


 ――道の終わりには、青い屋根の家。そこがアルヴァンの門前宿だ。


 記憶は、地名よりも先に道を知っている。


 イオナが筆を滑らせると、白紙の上に細い銀線が伸びた。北部街道から分かれ、石橋を渡り、三本の白樺を避け、ゆるい坂を上る。線の脇に、赤い布の印が浮かんだ。


 会場のどこかで、息をのむ音がした。


 けれど、銀線は谷の入口で途切れた。


 そこから先には、何もない。村も、城館も、川も、谷を囲む山の名さえも。白紙が筆を拒んでいる。


「失格だな」


 試験官の隣で、測図院長セドナ・ケルクが冷たく言った。四十を過ぎたばかりの女院長は、白い手袋を汚れ一つなく身につけている。


「存在しない土地を描こうとした。記憶写しは、事実の記録であって空想の補助ではない」


「存在します」


 思わず返した声は、自分で思っていたより大きかった。


「証言者は三人とも、同じ谷の話をしていました。道の形も、鐘の音も一致しています」


「だからこそ、危険なのです。誤った記憶が一致することもある」


 院長が指を振ると、係員が白紙を取り上げた。途中まで描かれた銀線が、煙のようにほどけて消える。


 いつものことだった。


 真実でない線は翌朝までに消える。けれど、真実でも王冠図に認められない線は、描いたそばから消されることがある。


 そのとき、広間の中央で王冠図が大きく揺れた。


 風はない。窓も閉まっている。


 アルヴァン領の白い空白が、水面のように波打った。紙の奥から、何かがこちら側へ押し出されてくる。


 最初に現れたのは、黒い革靴だった。


 次に、泥のついた長い外套。男は片膝をついた姿勢で白紙の中から転がり出ると、片手を床について荒く息をした。金糸の刺繍は擦り切れ、濃い金髪には霧の雫が光っている。


 広間が騒然となった。


 男はゆっくり顔を上げた。灰青色の瞳が、役人たちをひと撫でし、最後にイオナの筆へ止まる。


「ここは……王都か」


 低い声だった。疲れているのに、命令することに慣れた響きがある。


 近くにいた貴族の一人が、震える声で叫んだ。


「ディートリヒ・アルヴァン公爵!」


 その名を聞いた瞬間、イオナの背後で誰かが囁いた。


「帰れない公爵が、帰ってきた」


 公爵は立ち上がろうとして、わずかによろめいた。イオナが反射的に手を伸ばすと、彼はその手首をつかんだ。冷たい手だった。霧の中を、長い時間歩いてきた人の手。


「あなたが描いたのか」


「途中までです。谷の先は、描けませんでした」


「なら、描いてくれ」


 公爵の指が離れる。彼は懐から折り畳まれた紙片を取り出し、イオナに差し出した。紙には、ひとつの名前だけが書かれている。


 アルヴァン。


 その文字は、月墨でも普通のインクでもなかった。薄暗い銀の光を宿し、まるで紙の向こうからこちらを見ているようだった。


「私の領地は、三か月前に王冠図から消された。道も、記録も、領民の保護も、すべてだ。明日の白紙替えが終われば、あの谷は永遠に空白になる」


 院長が机を叩いた。


「公爵、ここで王立測図院を糾弾するおつもりなら――」


「糾弾ではない」


 ディートリヒは院長を見ず、イオナだけを見た。


「依頼だ。イオナ・フェルク。私を、故郷へ帰せる地図を描いてほしい」


 大広間の全員が、息をひそめた。


 イオナは銀色の紙片を受け取った。触れた指先から、知らない谷の記憶が流れ込んでくる。雪解け水の音。遠くで鳴る鐘。誰かが戸口で、帰りを待っている声。


 そして、地図から消される直前に断ち切られた、一本の道。


 紙片の銀光が消えた。


 イオナは顔を上げた。失格を告げられたばかりの筆を、今度は自分の意思で握りしめる。


「報酬を、先に聞かせてください」


 公爵の口元に、初めてかすかな笑みが浮かんだ。


「私が帰れたなら、あなたを王立測図院の下級写字生から解放する。代わりに、アルヴァンの正式な地図師になってほしい」


 帰る場所のない男と、居場所を与えられない写字生。


 その日、二人の前に、誰も認めない旅の地図が開かれた。

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