第3話『最期の敦盛』
第2話を読んでいただきありがとうございます。
本話では、織田信長と森蘭丸の最後の時間を描いていきます。
よろしくお願いいたします。
蘭丸は、もう動かなかった。
燃え盛る本能寺の中で、俺は静かにその身体を抱き上げる。
驚くほど軽い。
だが、蘭丸を失った重みは、この身では抱えきれぬほどだった。
腕の中の蘭丸は眠っているように見えた。
今にも目を開き、
「殿」
と声を掛けてきそうなほど穏やかな顔だった。
だんだんと冷たくなっていくのを感じる。
外では怒号が響いていた。
明智の兵たちが勝ち鬨を上げている。
槍が打ち合わされる音。
火縄銃の轟き。
兵たちの断末魔。
それらが絶え間なく耳へ流れ込んでくる。
焼けた木材の匂い。
血の臭い。
鼻を刺す煙。
息を吸うたび、肺が焼けるようだった。
本能寺は燃えている。
それだけは嫌でも分かった。
だが、不思議なことに、
それらはどこか遠くの出来事のように感じられた。
俺は蘭丸を抱いたまま本堂へ戻る。
床板は熱を持ち始めていた。
柱には炎が這い上がり、天井の梁から火の粉が降り注ぐ。
壁に描かれた絵は黒く煤け、
金箔の装飾は炎の光を受けて赤く揺れていた。
煙が肺へ流れ込む。
息をするたび、喉が焼けるように痛む。
それでも足は止まらない。
ここが終の場所だ。
織田信長の最期に相応しい。
本堂の中央まで歩くと、俺は蘭丸をそっと横たえた。
額にかかった髪を払う。
乱れた襟元を整える。
血に濡れた頬を袖で拭った。
せめて最期くらいは、安らかな姿で送り出してやりたかった。
戦場で傷を負った時も、
無茶をして叱られた時も、
蘭丸は俺によく手を焼いていたようだった。
そのたびに蘭丸は困ったように笑った。
そんな顔を思い出すたび、
押し殺していた思いが込み上げてくる。
いつもこいつは俺の傍にいた。
「よく仕えた」
掠れた声が零れる。
蘭丸は答えない。
だが、構わなかった。
聞こえていようがいまいが関係ない。
ただ伝えたかった。
誰よりも忠義を尽くし、
俺を支えてくれたことを。
感謝していることを。
「よくやった、蘭丸」
炎の唸りに掻き消されながらも、俺はもう一度そう告げた。
炎が近づく。
柱は赤く燃え上がり、
天井から火の粉が舞い落ちる。
障子はすでに焼け落ちていた。
吹き込む風が炎を激しく煽る。
熱い。
だが、不思議と恐ろしくはなかった。
俺は静かに立ち上がる。
腰の刀へ目を落とした。
長きに渡り共にあった愛刀。
幾度となく命を預け、
命を救われた相棒だ。
だが今、握るべきはこれではない。
俺は刀を傍らへ置いた。
代わりに懐から一本の扇を取り出す。
白地の扇だった。
何度も舞で使った愛用品。
戦乱の世を駆け抜けた男の最期を飾るには、こちらの方が相応しい。
ゆっくりと扇を開く。
ぱちり。
小さな音が響いた。
炎が扇を赤く染める。
俺は口元を緩めた。
若き日を思い出す。
尾張のうつけ。
そう呼ばれていた頃だ。
誰も俺が天下を取るなど思っていなかった。
だが、胸の内には、
誰にも理解されぬ野望が燃えていた。
国を広げ。
人を集め。
幾多の敵を退けてきた。
その裏で、多くの命が失われたことも知っている。
それでも歩みを止めなかった。
天下布武。
その旗を掲げ。
戦乱の世を終わらせるために。
誰よりも先へ進み続けた。
気がつけば、天下は目前にあった。
あと一歩だった。
本当にあと一歩だったのだ。
「人間五十年――」
静かな声が炎の中へ溶ける。
俺はゆっくりと舞い始めた。
「下天のうちをくらぶれば」
火の粉が舞う。
柱が軋む。
燃え落ちた木片が床へ散る。
炎に揺れる影を見ながら、ふと思う。
あれは誰だろうか。
先に逝った者たちか。
もう二度と会えぬ者たちか。
皆がそこにいる気がした。
「夢幻の如くなり」
夢だったのかもしれぬ。
尾張の一大名に過ぎなかった男が、
天下へ手を伸ばした。
あまりにも大きな夢だった。
だが、後悔はない。
俺は俺の人生を精一杯に生きた。
「ひとたび生を受け」
蘭丸へ目を向ける。
静かに眠る忠臣。
初めて会った日から変わらない。
いつだって俺の背を追い続けた男。
「滅せぬ者のあるべきか」
その時、
凄まじい音が本堂を揺らした。
梁が軋む。
炎が唸る。
熱風が吹き抜ける。
本能寺はもう限界だった。
だが、恐れはない。
ただ一つだけ、
心残りがあった。
戦のない世。
誰も、
大切な者を失わぬ世。
それを見たかった。
いや。
この手で築きたかった。
俺は蘭丸へ目を向ける。
「蘭丸」
その名は炎の中へ溶けていく。
もう届かぬことくらい分かっていた。
それでも呼ばずにはいられなかった。
俺は小さく笑った。
「待たせたな、蘭丸」
炎が揺れる。
「すぐに行く」
そして――。
本能寺は崩れた。
炎。
熱。
轟音。
すべてが一つになって押し寄せる。
視界が白く染まる。
意識が沈む。
深く。
深く。
どこまでも。
闇が広がる。
何も見えず、何も聞こえない。
そのはずだった。
『――織田信長』
声がした。
鈴の音のように澄んだ女の声だった。
暗闇の中に、かすかな光が灯る。
俺はゆっくりと目を開いた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回のタイトルにもなっている「敦盛」は、平敦盛を題材とした能の演目です。
織田信長は好んで舞ったとされる『敦盛』の一節、
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり」
を本能寺の最期に舞ったという逸話が残っています。
次回、「女神との邂逅」。
よろしくお願いいたします。
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