第2話『蘭丸の最期』
本能寺は、すでに明智軍に包囲されていた。
信長、最後の戦いが始まる。
「是非もなし」
その言葉を聞いた瞬間、蘭丸の表情が歪んだ。
若い。
まだ若すぎる。
俺より二十も年下だ。
本来ならば、
妻を迎え、
子を授かり、
ゆっくりと歳を重ねていくはずだったであろう。
蘭丸には、そんな人生を歩む未来もあったはずだ。
それでも蘭丸は震える手を押さえ込みながら頭を下げた。
「殿、お逃げください」
その声は掠れていた。
必死に込み上げる感情を押し殺しているのが分かる。
恐ろしくないはずがない。
死を前にしているのだから。
それでも蘭丸は、俺を生かそうとしていた。
「逃げるだと?」
俺は思わず笑った。
「裏手の道ならば、まだ――」
「馬鹿を申せ」
言葉を遮る。
蘭丸が顔を上げた。
その目には涙が浮かんでいた。
「天下人たる織田信長が敵に背を向けて逃げるなど、後の世に何と語られる」
「しかし!」
「蘭丸」
俺は肩に手を置いた。
細い肩だった。
戦場を幾度も駆け抜けてきたとは思えぬほど若い。
それでも、この男は最後まで俺に尽くしてくれた。
誰よりも忠義深く、真っ直ぐに。
「よく仕えた」
蘭丸の肩が震えた。
「殿……」
「余は満足しておる」
しかし、
悔いがないわけではない。
天下統一はまだ終わっていない。
成し遂げたかったことも山ほどある。
だが、
尾張の小大名から始まり、ここまで来た。
人として歩んだ道に悔いはない。
蘭丸は唇を噛み締めた。
やがて覚悟を決めたように深く頭を下げる。
「最後まで、お供いたします」
「うむ」
その時だった。
外から怒声が響く。
「敵襲!」
「明智勢が押し寄せたぞ!」
「防げ!!」
槍がぶつかる音。
悲鳴。
火縄銃の轟音。
本能寺が戦場へ変わる。
俺は、何十年と握り続けた愛刀を手に取った。
掌に馴染む重みが妙に懐かしい。
「参るぞ」
「はっ!」
障子を開く。
冷たい雨が吹き込んだ。
その向こうでは、すでに織田の兵たちが奮戦していた。
だが数が圧倒的に違う。
本能寺には百にも満たぬ手勢しかいない。
一方で光秀は一万を超える軍勢を率いている。
勝負は始まる前から決していた。
それでも、
織田の兵たちは誰一人として退いてはいなかった。
「殿をお守りしろ!」
「ここを通すな!」
「織田の意地を見せよ!」
雨の中で刃が閃き、怒号が飛びかう。
自軍の兵が次々に倒れていく。
まさに地獄絵図だった。
これが戦だ。
多くの友と家臣を失ってきた。
名も知らぬ多くの兵たちも命を賭していった。
だが、
勝利の裏で泣く者を、俺は嫌というほど見てきた。
勝者は多くを得る一方で、
敗者は多くを失う。
常にその両者にも死者はついてまわる。
だから終わらせたかった。
この終わりの見えぬ戦乱を。
桶狭間で散った者たちも。
長篠で倒れた者たちも。
名を残すことなく土へ還った兵たちも。
皆、誰かにとって大切な存在だった。
友を失う悲しみを知っている。
家臣を失う苦しみも知っている。
もう誰も、
大切な者を失わぬ世を作るために。
俺は戦い続けた。
その願いは――
届かなかった。
喉の奥に、飲み込めぬ苦さが残る。
その時だった。
一人の敵兵が斬りかかってきた。
「信長だ!!」
「討ち取れ!」
刀が振り下ろされる。
遅い。
俺は一歩踏み込み、横薙ぎに斬った。
鮮血が雨に散る。
敵兵が崩れ落ちる。
返す刃で二人目を斬り伏せる。
さらに踏み込み、三人目を薙ぎ払う。
だが敵は止まらない。
倒しても。
倒しても。
次の兵が現れる。
まるで濁流だった。
一万の軍勢とは、そういうものだ。
やがて本堂のあちこちから火の手が上がり始めた。
油を撒いたのだろう。
炎が柱を舐める。
乾いた木材が爆ぜる。
見慣れた本能寺が、業火に呑まれていく。
敵兵を斬り伏せる。
次の敵へ踏み込もうとした、その時だった。
視界の端で、
蘭丸の身体が大きく揺れた。
振り返る。
敵の槍が、蘭丸の脇腹を貫いていた。
「――っ!」
一瞬。
何が起きたのか分からなかった。
蘭丸が膝をつく。
血が溢れる。
俺は敵兵を斬り伏せ、駆け寄った。
「蘭丸!」
傷は深い。
助からぬ。
それは俺にも分かった。
蘭丸自身も理解していた。
それでも蘭丸は笑った。
いつものように、
俺を安心させる時の顔で。
「申し訳……ございません……」
「馬鹿を申すな」
「最後まで……お仕えできて……幸せでございました……」
蘭丸の顔から、少しずつ生気が失われていく。
それでも、その瞳だけは変わらなかった。
初めて会った日から変わらない。
いつだって、俺の背を追い続けた瞳だった。
蘭丸は震える手を伸ばし、そっと俺の袖を掴んだ。
「殿」
「何だ」
「どうか……最後まで……織田信長で……」
その言葉を最後に。
森蘭丸の手から力が抜けた。
炎の中で。
森蘭丸だけが、静かだった。
俺はしばらく動けなかった。
家臣を失うことには慣れている。
慣れているはずだった。
だが、
蘭丸だけは違った。
幼き頃から傍にいた。
誰よりも近く。
誰よりも信じた男だった。
燃え盛る本能寺の中で。
俺は静かに蘭丸を抱き上げる。
軽かった。
あまりにも軽かった。
失われるには、あまりにも。
そして――。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
信長の傍らに最後まで仕え続けた森蘭丸。
その忠義は、今なお多くの人に語り継がれています。
次回、最期の敦盛。
よろしくお願いいたします。




