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巡る軌跡  作者: せおりめ
21/21

日記 3(完結)

「夢の中で史織が悲しそうな顔してたんだ。だからずっと謝っててさ。もう嘘は吐きたくなかったから。そうしたら、ミズさんの声が聞こえて、手もなんだか温かくて」


 自分を包んでいた温度と感触が蘇り、大芽は目の前で緩く拳を作った。


「それで救われたとでも言いたいんですか、図々しい」


 距離が近ければ拳をはたき落とされていたに違いない。そう思わせるやさぐれた口調で吐き捨てられ、大芽は下ろした手で日記をさすりながら言い返した。


「徹さん。ミズさんの日記には、ものをはっきり言うけど包容力がある、やけに優しい人で書かれていたけど、二重人格?」

「瑞穂さんならともかく、どうして大芽さんに親切にしてあげる必要があるんです。大体、あの事故については随分あなたを恨んだものですよ。あれさえなければ、あの人は私を選んでいたはずだった」

「それについてはよくやったって自分に言ってやりたいよ。危ない所だった」



 全てを打ち明け謝ろうと決意したものの、中々踏ん切りがつかなかった。まあまずは退院してからだと、すぐに行動に移せない現状に焦りながらも安堵していた。

 一般病室に移ってからは毎日見舞いに訪れる沢村が、どういうわけか瑞穂をもっと大切にしろと言いだし面食らった。けれどその変化は大芽の決心を後押ししてくれているようで、心強くもあった。見舞いには瑞穂を誘ったが応じなかったと聞き、自分が取ってきた態度を考えれば当たり前かと納得した。しかし納得していたつもりであったが、やはりどこかで落胆もした。父親の説教はいつものことで、こちらにも従順に耳を傾けておいた。

 退院しても松葉杖は手放せず、リハビリに通う必要があった。ちゃんと歩けるようになってからと瑞穂に会いにいくのを引き延ばし、やっと決心した日には、もう遅すぎた。

 瑞穂の命の期限が迫っていたなど、想像したことすらなかった。



 蝉の声は休まず鈴の音のように振ってくる。あの日からまだ一週間近くしか経っていない今日も、相変わらず暑い。瑞穂が六年間過ごした部屋を一度見渡した。ソファの向かい、壁に面したテレビの棚には数多くのDVDやブルーレイディスクが収められてあった。洋画に邦画、お笑いと、大芽が知らないタイトルもたくさんある。これから時間をかけて見ていこう。

 そう考えを巡らせてから、大芽は神崎に目を留めた。こちらを向いている、整った無表情。結婚後、瑞穂の一番近くにいたのはこの男だった。


「久しぶりに会ったミズさんは僕より全然背も低くてさ、びっくりするほど軽かった。リハビリ中の身体でも余裕で支えられるぐらい」

「もう、あまり食べられないようでしたから」


 神崎は、僅かに目を落として静かに言った。



 瑞穂が倒れた後、大芽は事態が飲み込めないまま神崎が呼んだ救急車に同乗した。医療センターの廊下で処置を待つ間、瑞穂の病気を初めて知らされ愕然とした。すぐにどうして知らせなかったと神崎の胸ぐらを掴んだが、見返す目に非難を読み取り、何も言えなくなった。力なく手を降ろすと、神崎は黙って乱れたネクタイを直していた。

 数時間後、瑞穂は持ち直した。何故か神崎になっている瑞穂の配偶者は自分だと頑強に主張し、集中治療室へ入った。目覚めていたが酸素マスクをしていた瑞穂は何も喋らず、落ち着いた目で大芽を見返すだけだった。そんな時に、馬鹿みたいに謝るしかない大芽の頭を瑞穂は点滴の針が刺さった手で撫で、眼差しだけで笑いかけた。幼い頃の弱い自分から全く変わっていない。むしろ、自分に正直なだけ昔の方がマシだった、と頭を垂れながら大芽は心底恥じ入った。


 瑞穂の実家、立川家に連絡すると、すぐさま三人が一緒に到着した。薄々事情を察していたシンには顔面を二発殴られた。肋骨を折っていた事実に配慮して、腹は止めておいてやると言われた時、さすがは瑞穂の弟だと感心した。

 次の日には一般病棟に移れるはずだった瑞穂の容態はその晩急変し、昏睡状態に陥った。そしてそのまま目覚めることなく、とうとう四日後の昼に息を引き取った。眠っているだけだろうと思わせるような、静かな最期だった。医者や神崎によると、予想よりも早い旅立ちだったらしい。



「徹さんに渡されてびっくりした。ミズさん、日記なんて書いてたんだね。しかも集中治療室でまで」

「元々入院するつもりでしたから、荷物の中に入れてありました。普通であれば持ち込めないでしょうが、まあ、瑞穂さんは事情が事情でしたから。医師も許可を出したようです」

「でも、なんで徹さんが先に読むんだよ。夫の僕を差し置いて」


 神崎から隠すように日記を抱き込み不平を零す大芽に、神崎がこちらこそ腹に据えかねているという口調で返す。


「言っときますが、読んでいいと言われていたのは私だけだ。大芽さんにも誰にも渡したくはなかった。ですが、集中治療室で書かれた内容は、大芽さんだけに宛てられたものでしょうから……」


 だから不承不承教えたのだという言葉を続ける変わりのように、神崎は長々と溜息を吐いた。

 大芽もつられたように大きく呼吸して、言った。


「驚きだよね。僕は逆恨みから脱出するのに六年もかかったのに、ミズさんは真実を知った次の瞬間にはもう許していたんだから。ほんと、敵わない」


 何も語らなかった瑞穂は、日記で全てをつまびらかにしていた。ベッドの上で力を振り絞って書かれていた最後の文章は、筆圧が弱く、掠れて震えていた。読みながら大芽は最初、自分の目が滲み、手が揺れているからなのだと思った。


「だからあなたは最後まで弟扱いのままだったんですよ」

「全くね……」


 短く呟き、そういえば、と思いついた。


「輪廻か。お祖父ちゃんがよく言っていたな。――ミズさんには悪いけど。生まれ変わるなら、僕はミズさんとはやっぱり別の家に産まれたいな」

「それでまた幼馴染みにでもなるつもりですか」


 億劫そうに組んでいた腕を外し、神崎が寄りかかっていた状態から体勢を戻す。大芽は両膝を立てて体育座りになり、身体と膝の間で日記を抱き込んだ。


「まあ、そうだね。今度は、僕の方が年上がいい。あんまり離れすぎたら同じ学校に通えないから、一つか二つくらいで。お隣さんで、親同士でも仲が良くってさ。ミズさんが産まれた瞬間からツバつけとく。今度こそ、自分の感情を見失わない。他に目を向けさせないように独占して、いつも一緒にいる。シンはまあ、ミズさんの弟でもいいか」

「また勝手なことを。瑞穂さんはもう、色恋沙汰であなたに関わるのはこりごりだと思ってますよ」


 神崎が大芽に背を向けてパソコンの前に戻りながら、そっけなく言い放った。


「そうだろうけど。そこら辺はミズさんの優しさにつけ込んで、押しの一手で攻めたり」

「じゃあ、史織嬢はどうするんです」


 引き出しの机を開けながら氷結の眼差しを寄越し、神崎が訊いてくる。かつての恋人の顔を思い浮かべ、大芽は破顔した。


「ああ、史織こそ妹がいいな。大事に大事に可愛がって、彼氏を連れてきても絶対認めてやらない。結婚したいなんて言ってきたら、相手の男をぶちのめす」


 筆記用具を出しながら、神崎が口を歪めて笑う。


「だったら禁断の恋にでも走って、瑞穂さんは私に任せなさい。瑞穂さんとは幼稚園から一緒の同い年になってあげますから」

「うわ、手強そう。でもミズさんは渡さないよ」


 ソファの前にあるローテーブルの上に、白いノートパソコンが置いてあった。キーを叩いて内職している瑞穂が目に浮かび、顔が和んでくる。


「知ってる、徹さん? お祖父ちゃんとミズさんが大切にしていた神棚、あれ、お神札が三枚入ってるんだ。一枚は伊勢神宮。これはどこの神棚でも一緒だって。もう一枚は、ここの近くの氏神神社。それからあと一枚は、ミズさんの実家の氏神様。僕たちが幼い頃よく遊んでいた、ツナギ様なんだって。あそこは、名前の通り縁結びの神様でもあるらしいんだ。ミズさんのお父さんに恩を受けた時から、お祖父ちゃんがお奉りしていたらしいよ。いいご縁ができますようにって」

「それがどうしました」


 こちらに顔を向けないまま、神崎は立てかけられていた書籍類を整理していた。特別興味がなさそうに尋ねてくる。


「ここに帰ってくることにしたんだ。これからは、あの神棚は僕が受け継ぐよ。それで毎日お祈りする。またミズさんに会えるように」

「まあ、せいぜい好きなように妄想していることです。私はもう帰ります」


 パソコンを持ち上げる神崎が言う。

 大芽は笑顔を作って要請した。


「徹さんさ、僕の秘書になってよ」

「寝言は休み休み言いなさい。どうして私が大した役職に就いているでもないあなたに」


 返ってきた視線は、今までで一番硬く冷たく突き刺さった。

 それに対して大芽は、わざと唇を尖らせた。


「働いているわけでもなかったミズさんの秘書にはなってあげていたのに」

「瑞穂さんとご自分を一緒にしないように。あの人は特別でした。どちらかというと、あなたにはもう関わりたくない」

「そう言うけどさ、徹さんも結構僕に負い目を感じてるんじゃないの?」

「さんざん好き放題していた大芽さんに、私がどんな負い目を持つと言うんです」


 神崎が眉根を寄せて顔に疑問を浮かべる。

 不意打ちを喰らった素のような表情に面白さを感じ、大芽は屁理屈をこねた。


「僕のミズさんに対する気持ちを見抜いていたくせに、教えなかったでしょ。ミズさんが知っていたら、何かが変わっていたかもしれなかったと思わない?」


 神崎が一度手に持ったノートパソコンを置き直し、体重をかけるようにして両手を机の縁に突いた。物思いに耽るようにしばらくパソコンを見つめてから、口を開く。


「――まあ、瑞穂さんの気持ちがどこにあろうと、大芽さんとはさっさと離婚した方がいいと思い黙っていたのは事実だ。そこには私自信の邪な思惑も確かにあった。それは認めましょう。しかし、だったら負い目を感じるのはあなたにではなく、瑞穂さんにです」

「そこら辺は譲歩してよ。金がいるんだ、たくさん。僕個人だけじゃなく、会社も巻き込んで。それには、役職が高い方が都合がいいんだよ。協力してよ、徹さん」


 大芽が瑞穂に行ってきた残酷な仕打ちは、決して許されるべきものではない。例え被害者の瑞穂が寛容な感情を残してくれていたとしても、大芽自身はその優しさにぶら下がってはいけない。しかしいつまでも反省しているだけでは何も変わらないのだ。せめてあの世に行った時、瑞穂に顔向けできる程度の自分でありたい。

 そこで大芽は自分に何ができるかを考えた。病気は大芽の大切な女性を立て続けに奪っていった。だからといって大芽には、世間に蔓延する病を撲滅する知識などない。

 大芽にできることは――


「何を企んでいるのか知りませんが……。だったら、まずはご自分の実力で社長になりなさい。それなら一考の余地ありです」

「社長になったら秘書になる、じゃなくて考えてやる、なのか。厳しいよね」

「それぐらいの気概を持っていないと、新しい事を始めるなんてできやしませんよ。あなたのお祖父様は、常に新しい何かを追い求める、革新的な方でした」


 パソコンを再び持ち上げながら言った神崎の言葉が最大の譲歩だと、今は諦めるしかない大芽だった。


「親の壁よりも祖父世代の壁って厚くて高いよなぁ。まあいいよ。僕が社長になった暁には、色々奔走してもらうから」

「瑞穂さんを幸せにできなかった分、経済活動に従事してせいぜい社会の役に立ってください。期待しないでその時を待っています。ではこれで」


 神崎はノートパソコンを持参の鞄に仕舞い込むと、背を向けたまま片腕を上げ、振り返らずに出ていった。

 蝉と、庭の木を揺らす風の音が聞こえる。

 人数が減った分、外から入ってくる音が大きくなったような気がした。いつもこの中で過ごしていた瑞穂と、同じ体験をしていると思った。

 閉まったドアをしばらく見つめ、それから視線を目の前に移す。そこには慎重な手つきで持ち上げた、瑞穂の想いが詰まった日記がある。大芽は赤い表紙にそっと唇を寄せ、出せる限りの優しい声音で囁いた。


「僕がそっちへ行くまで、もうちょっと待ってて」



 葬式の際、遺影に何を使うか決める時に、瑞穂が写ったものは結婚の時のスナップや集合写真しかないことに気づいた。葬儀の間、瑞穂の友人の巴は最後まで大芽を無視したままだった。瑞穂の両親の嘆き、父や沢村の沈痛な面持ち。自分が取ってきた行動に繋がる全ての事実を今度は逃げることなく、大芽はありのままに受け止めた。

 棺の中、花に埋もれた瑞穂の顔は、化粧で綺麗に装われていた。それでも青白さが隠し切れていないまぶたが開かれることはなく、これが最後の別れなのだと痛烈に理解した。

 大芽は辛い症状に苦しむ瑞穂に優しい言葉一つかけてやれなかった。それどころか気づこうとさえしなかった。最も大切に扱うべき相手に、終始胸が張り裂けるような想いしか渡してこなかった。

 瑞穂は大芽の本当の気持ちを知らないまま逝ったのだ。

 ふと、瑞穂の日記に書かれていた内容を思い出し、色付いた唇に愛情をこめて口づけた。周囲のどよめきを意識外に感じながら、これで瑞穂の大事な場所に触れたのは自分だけだと、子供じみた満足感が湧いた。


 愛していると自覚したそばからその相手は取りあげられた。どれほど悔やんでも瑞穂はもういない。それが神から大芽に下された応報。大芽がこれから一生受け続けなければならない罰だった。




 難病に苦しむ人を支援するための一基金が、複数の企業合同で新たに創設された。提案者は創設企業一社の会長職にある人物で、資料と大義名分、設立の際のメリットを並べたて、数年かけて企業を説得して回った。

 自身もその基金に私財をなげうって寄付し、数多くの人間に感謝と共に名前を挙げられる男はしかし、どれほど勧められようとも家庭を持とうとはしなかった。若い頃に亡くした妻をずっと愛しているのだろうと、その男の話題が出る際は、美談として必ず出てくるエピソードである。晩年を孤独の内に過ごしたといわれているが、かつての秘書だった男とは長く交流が続いたと噂されている。

 臨終を迎えた際、その亡骸は赤い表紙の日記と共に、荼毘に付されたという。

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

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[一言] この屑がありとあらゆる苦痛を味わって死にますように
2021/12/29 00:39 退会済み
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