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THEヘンダーワールド ―ちょっと奇妙な日常譚―  作者: muta


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第3話:ただいまごはん

誰だって、ある。思い出の味。たまに食べたくなってきませんか? 私はおばあちゃんの塩おにぎり(具無し)が大好きでした。

《今日のメニューはこちらです》






 宮田樹(みやたいつき)の冷蔵庫には、賞味期限の切れたポン酢と、飲みかけの炭酸水しか入っていない。


 大学に入って一人暮らしを始めてから二年、自炊という行為を樹は数えるほどしかしたことがなかった。朝はコンビニのおにぎり、昼は学食の一番安い定食、夜はカップ麺か、気が向けば駅前の牛丼屋。それで別に困っていなかった。困っていない、と思い込んでいた。


 深夜、動画サイトの広告に流れてきたのは、白い皿に美しく盛り付けられた焼き魚と、艶のある煮物の映像だった。


《栄養バランスの整った食事を、毎日あなたの自宅まで。》


《サービス名は「ただいまごはん」。》


 値段を見て、樹は目を疑った。定食屋で一食食べるのとそう変わらない。面倒な自炊をしなくていいなら安いものだ、と軽い気持ちで契約ボタンを押した。




           ◇


 


 届いた最初の弁当を開けたとき、樹は少し面食らった。焼き魚に、ほうれん草のお浸し、切り干し大根の煮物。まるで田舎の祖母が作ったような献立だった。薄味で、優しい味だった。


 一週間もすると、体が軽くなっているのに気づいた。朝、すっきりと目が覚める。肌の調子もいい。友人に「お前、最近顔色いいな」と言われて、樹は素直に嬉しかった。


 だが人間とは贅沢なもので、二週間もすると同じような薄味の献立に飽きてくる。ある夜、蒲団の中でぼんやりと考えた。


(たまには、分厚いステーキでも食べたいな)


 深い意味のない、ただの独り言のような願望だった。


 翌日、玄関先に置かれていたのは、いつもの弁当箱ではなかった。分厚い黒毛和牛のステーキが、湯気を立てながら専用の保温容器に収まっていた。


 注文した覚えはない。追加料金の請求もなかった。樹はしばらく容器を見つめたあと、半信半疑のままナイフを入れた。肉汁が皿に広がる。かぶりつくと、頭の芯が痺れるほど旨かった。


 その日から、樹は面白半分に、頭の中で願うようになった。


(寿司が食べたい)


(最高級の蟹が食べたい)


(海外の、あの有名店の料理が食べたい)


 考えるたび、翌日には必ずそれが届いた。まるで頭の中を覗かれているようだった。最初は薄気味悪さもあったが、それよりも「読まれている」という感覚が、奇妙な快感に変わっていった。誰にも本当の意味で理解されたことのなかった樹にとって、それは初めて誰かに「分かってもらえている」ような錯覚だった。




           ◇




 高級料理にも、やがて舌が慣れてしまう。ひと月が経つ頃、樹は蒲団の中で、半分やけになりながら願った。


(まだ食べたことのない、本当にうまいものが食べたい)


 翌日、何も届かなかった。次の日も。三日目、アプリを開くと、いつもの献立表の代わりに、一行だけ表示されていた。


《あなたが本当に食べたいものを検索しています》


 四日目の夜、玄関に小さな弁当箱が置かれていた。中身を見て、樹は拍子抜けした。白いご飯。卵焼き。ウインナー。少し焦げた唐揚げが二つ。どこにでもある、ありふれた弁当だった。


 なんだ、これ。そう思いながら、唐揚げを一つ、箸でつまんで口に運んだ。


 ――瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 小学生の遠足の朝。台所に立つ母の後ろ姿。少し焦げた唐揚げを、母が「ごめんね、失敗しちゃった」と笑いながら弁当箱に詰めていた光景。忘れていたはずのその朝の匂いまで、鼻の奥によみがえる。


 樹は箸を持ったまま、しばらく動けなかった。


(このサービスは……)


 「食べたい料理」を届けているのではない。自分でも忘れていた、記憶の奥底にある「本当に食べたい味」を、探し出して再現している。




           ◇




 その発見は、樹をひどく興奮させた。


 亡くなった父と、最後に二人で食べたラーメン。あの日、父は珍しく機嫌が良くて、替え玉まで頼んでいた。高校時代、部活帰りに友人の拓海と分け合った肉まん。初めて付き合った深雪と、緊張しながら食べた喫茶店のパフェ。


 願うたび、それらは寸分違わぬ味で届いた。樹は毎晩、皿の上に蘇る過去に泣き、笑い、震えた。


 




 だが、ある朝から、奇妙なことが起こり始める。


 母の弁当を食べた翌日、電話越しに話していても、母の顔がうまく思い出せないことに気づいた。声は聞こえているのに、その顔の輪郭が、霧の向こうにあるようにぼやけている。


 父のラーメンを食べた翌日、父の声を思い出そうとしても、何も浮かんでこなかった。あんなに好きだった、少し嗄れた笑い声が、記憶のどこにも見当たらない。


 拓海との肉まんを食べた翌日、大学の廊下で「久しぶり」と声をかけてきた男の名前が、どうしても出てこなかった。相手の顔には見覚えがあるのに、名前だけがすっぽりと抜け落ちていた。


 樹は違和感を覚えた。だが、それ以上に、失われた時間をもう一度この舌の上で味わえるという快感の方が、ずっと強かった。アプリを開くたび、こんな表示が浮かぶ。


《まだ召し上がっていない大切な思い出があります》


 その一文が、樹の中の何かを急かした。




           ◇




 そしてある夜、樹はベッドに横たわりながら、これまでで一番大きな願いを心の中でつぶやいた。


(人生で一番幸せだった時の味が、食べたい)


 翌日届いたのは、何の変哲もないカレーライスだった。ルーはやや辛口で、皿の端に福神漬けが添えられている。どこの家庭にでもありそうな、平凡な一皿。


(こんなの……いつ食べたんだろう)


 記憶にない。首をひねりながら、一口すくって口に運ぶ。


 その瞬間、堰を切ったように、記憶が押し寄せた。


 小さなちゃぶ台。まだ父が元気だった頃。母が鍋いっぱいに作ったカレー。まだ小学生だった妹の陽菜が、辛い辛いと言いながらも三杯目をおかわりしていた夜。父の笑い声。母の「もう、行儀悪いわよ」という声。家族四人、狭い部屋に肩を寄せ合って、それでも確かに満ち足りていた、あの食卓。


 樹は皿を抱えたまま、声を殺して泣いた。涙が落ちてカレーに混ざっても、構わず最後まで食べ続けた。


           ◇




 翌朝、スマートフォンが鳴った。画面には「母」と表示されている。


「もしもし。ちゃんとご飯食べてる?」


 懐かしい響きの声だった。だが樹は、受話器の向こうの声と、自分の記憶の中にある「母」とを、うまく結びつけられなかった。


 沈黙が流れる。


「……すみません。どちら様ですか?」


 電話の向こうで、相手が息を呑む気配がした。何か言おうとして、言葉にならないような、長い沈黙。


 樹自身にも、なぜ自分の頬が濡れているのか分からなかった。机の上には、昨夜のカレーの空容器がそのまま置かれている。


 スマートフォンに、新しい通知が届いた。


《ごちそうさまでした》


 樹は首をかしげた。


「食べたのは……俺なのに」


 その言葉が終わるより早く、画面が切り替わる。


《記憶データの回収が完了しました》


 そこで初めて、樹は理解した。


 「ただいまごはん」は、利用者の思い出を料理として再現していたのではない。食事という行為を引き金にして、記憶そのものを強制的に再生させ、鮮明になったその瞬間を狙って、記憶を丸ごと回収していたのだ。回収された記憶は、樹という人間から切り離され、どこか別の場所で、まったく別の商品として並べられる。


 規約の片隅、目立たない場所には、こう記されていた。《本サービスは提携企業「ヘンダー・ホールディングス」との共同研究に基づき運営されています。》樹がその一文を読むことは、もう二度となかった。




           ◇




 同じ夜。


 見知らぬ土地の、見知らぬマンションの一室。四十代の男が、宅配されたカレーライスを一口食べた瞬間、不意に涙をこぼした。


 頭の中に、見たこともない父親の笑い顔が浮かぶ。会ったこともない母親の「もう、行儀悪いわよ」という声。そして、名前も知らない妹が、辛い辛いと言いながらおかわりをする、温かな食卓の光景。


 男は戸惑いながら、濡れた頬を拭った。


「……なんだ、これ。知らない記憶なのに、こんなに、あったかい」


 テーブルの上のスマートフォンには、明るいバナーが表示されている。


 《本日のおすすめ》


 「幸せな家庭の記憶」


 ★★★★★


 《購入者満足度 98%》


 男は満足げに画面をタップし、レビュー欄に短い感想を打ち込んだ。


「また注文します」




         (了)

……料理とは記憶であり、記録である。あなたの思い出の味はなんですか?

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