第2話:同じ夢をみる人
マッチングアプリの使用者数:20代で53.9%、30代で52.1%(2025年)。20代では、マッチングアプリが職場や学校での出会いに次いで人気の出会い手段となる。マッチングアプリは多くの人々にとって重要な出会いの手段になっているのが当たり前の世の中です。
神崎隼人が「えにし」をインストールしたのは、三年付き合った恋人に別れを告げられてから、ちょうど半年が経った夜だった。
理由は覚えている。「あなたといると、自分がどう感じてるのか分からなくなる」。そう言われた意味を、隼人は今でもうまく飲み込めずにいる。システムエンジニアという仕事柄、物事には必ず原因と結果があると信じてきた。だが人の心だけは、いくら仕様書を読み込んでも、思い通りに動いてくれなかった。
同僚に勧められた「えにし」は、他のマッチングアプリとは仕組みが違うと評判だった。趣味や年収の項目を埋めるのではなく、指先をカメラにかざして脈拍を測り、短い音声を録音し、健康管理アプリとの連携を許可する。それだけで、AIが「運命指数」という数値を算出し、相性の高い相手を紹介してくれるのだという。
半信半疑のまま指を画面にかざすと、数十秒後、通知が届いた。
《運命指数 98% 柊木芽衣さんとマッチングしました》
九十八パーセントという数字の重みを、隼人はまだ知らなかった。
◇
柊木芽衣は、区立小学校で二年生を受け持つ教員だった。初めて会った喫茶店で、隼人が言おうとした冗談を、芽衣が一瞬早く口にした。
「あ、それ、私も今考えてました」
偶然にしては出来すぎていたが、二人は笑い合った。注文したのは同じ、季節限定のカフェオレ。会計の時に伸ばした手も、同じタイミングで引っ込めた。
付き合い始めてからの数週間は、隼人の人生でいちばん穏やかな時間だった。芽衣といると、次に何を言えばいいか迷うことがなかった。言葉が、考えるより先に、するりと出てくる。かつて別れた恋人に指摘された「自分の感情が分からなくなる」という言葉が、今度はまったく違う意味で当てはまっているような気さえした。分からなくなるのではなく、最初から二人分揃っているような、そんな感覚だった。
ある朝、目が覚めてすぐ、芽衣からメッセージが届いた。
〈今日、変な夢見たんだけど。海辺で、知らない歌を歌ってる夢〉
隼人は自分の夢を思い出して、指が止まった。同じ海辺だった。同じ、聞いたことのない旋律だった。
〈俺も同じ夢見た〉と返すと、芽衣からハートのスタンプが返ってきた。〈やっぱり運命かもね〉。
その夜、隼人は少しだけ、指先が冷たくなるのを感じた。だが、それを不安と呼ぶには、まだ幸福の方が大きすぎた。
◇
異変は、些細な形で積み重なっていった。
芽衣が公園の階段で転び、右膝を擦りむいたと連絡があった翌朝、隼人は自分の右膝に、覚えのない擦り傷のような赤みを見つけた。ぶつけた記憶はない。芽衣に写真を送ると、彼女は既読のまま、しばらく返事をよこさなかった。
「気のせいだよ、きっと」
電話越しの芽衣の声は、笑っていたが、少しだけ硬かった。
別の日、会議中に隼人は、理由もなく涙が溢れて止まらなくなった。同僚が心配して声をかけてくるほど、嗚咽が止まらなかった。慌ててトイレの個室に駆け込み、震える手でスマホを取り出すと、芽衣から着信が入っていた。
「隼人くん、今、大丈夫?」
「え……なんで」
「私も、さっきまで、わけもなく泣いてて」
電話の向こうで、芽衣は笑おうとしていた。うまく笑えていなかった。
「私たち、そんなに相性いいのかな」
その一言に、隼人は何も返せなかった。相性がいい、という言葉で片付けるには、涙の理由が誰のものかも分からないという事実は、あまりに奇妙すぎた。
◇
隼人は「えにし」の利用規約を、初めて隅から隅まで読んだ。
難解な条項が並ぶ中、一箇所だけ、明朝体の小さな注記に指が止まった。
《本サービスは、提携研究機関による生体感覚同期技術の実証実験を兼ねております。詳細は提携先研究機関の説明をご参照ください。》
リンク先には、聞いたことのない大学の研究センターの名前があった。花水木大学・感覚知能研究センター。ページの隅、協賛企業の欄に、見覚えのないロゴが小さく並んでいた。その中の一つに、「ヘンダー・ホールディングス」という文字があったことに、隼人は気づかなかった。目に入っていたはずなのに、記憶に残らなかった。
芽衣を呼び出し、画面を見せた。彼女はしばらく黙って読んでいたが、やがて静かに言った。
「私、前から知ってた」
「え」
「怖くて、言えなかった。でも……隼人くんと離れるの、もっと怖いの」
その言葉に、隼人は安堵と恐怖を同時に覚えた。安堵したこと自体が、果たして自分の感情なのか、判断がつかなかった。
◇
二人はある晩、思い切って「えにし」のアプリを同時に削除することにした。せーの、で指を滑らせる。画面から二人分のアイコンが消えた瞬間、隼人の頭の奥で何かが引き剥がされるような感覚があった。
その夜から、隼人は芽衣と連絡が取れなくなった。電話も、メッセージも、既読すらつかない。三日目の朝、隼人はたまらず学校まで様子を見に行った。
職員室の隅、青白い顔をした芽衣がいた。隼人を見るなり、彼女は崩れ落ちるように泣き出した。
「苦しいの。息ができないくらい、苦しいの。隼人くんと離れてから、ずっと」
隼人にも分かった。同じ苦しさが、自分の胸の中にもあった。まるで、二つで一つだったものを無理やり引き裂かれたような、生理的な渇き。便利だから、幸福だから使っていたのではない。いつの間にか、二人の感覚は「えにし」というシステムを介さなければ成立しないほど、深く縫い合わされていた。
その日のうちに、二人は再びアプリを開いた。指先が震えながらも、迷わずインストールボタンを押した。押した瞬間、体の底から、安堵という名の、けれど本当に自分のものかどうか分からない感情が満ちていくのを、隼人は黙って受け入れた。
……これからも同じ夢を見続けるのだろうか。
◇
半年後。
「えにし」の運営元は、新プランの提供を開始した。プレスリリースにはこう書かれていた。
《AIマッチング「えにし」、感覚同期エンジンをアップデート。より深い「絆」を、より早く。》
新規登録者数は、発表直後から跳ね上がった。カスタマーサポートに寄せられる声の多くは、こうだった。
「昔のマッチングアプリと違って、本当に運命の人としか出会えない気がする」
開発チームの片隅では、隼人と芽衣のように「同期率」が高いカップルたちの生体データが、来る日も来る日も解析され続けていた。二人の涙のタイミング、心拍の波形、夢に見た旋律――それらは個々の恋愛の記録としてではなく、「理想的な絆とは何か」を学習するための、大量のデータの一部として蓄積されていく。運命指数という言葉の裏で静かに計算されていたのは、二人がどれだけ幸福になれるかではなく、二人からどれだけ質の高いデータが引き出せるか、という別の指数だった。
その夜、新しく「えにし」に登録した女性が、緊張した面持ちで指先をカメラにかざしていた。数十秒後、通知が届く。
《運命指数 97%。あなたにぴったりの方が見つかりました》
彼女は画面を抱きしめるようにして、小さくつぶやいた。
「私にも、ちゃんと運命の人、いたんだ」
その足元、広告バナーの下に、ごく小さな文字でこう記されていた。
《あなたの「運命の人」は、すでにデータの中にいます。》
(了)
あなたの運命の人との出会いはどのような形でしょうか?また、どのような形を望みますか?




