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THEヘンダーワールド ―ちょっと奇妙な日常譚―  作者: muta


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第1話:GIFT

あなたの大切な存在になっていませんか?あのアプリ………

こめかみに触れると、まだ薄いチップの縁がひんやりと指先に残る。皮膚に馴染むまで三日かかると説明書には書いてあったが、青山蒼太(あおやまそうた)の場合は初日の夜にはもう、そこに何かが貼ってあることさえ忘れていた。




 忘れていた、というのは正確ではないかもしれない。忘れる、という行為そのものを、GIFTが代わりにやってくれるようになっていたのだと、今なら分かる。


           ◇


 きっかけは、本当にささいなことだった。


 大学時代の友人が、居酒屋のテーブル越しにスマホの画面となにやら皮膚に貼り付けるシールのようなものを見せてきた。


「これ、うちの大学が開発した新しい生成AIらしいんだって。1週間だけ無料版らしい。1週間使ってみて、便利なら金払えば継続するみたいだ。アプリダウンロードしてとりあえず貼ってみ。なんかよ、それ貼ると頭の中に勝手に話しかけてくれるらしいぜ!俺はよくわからんから、お前使ってみな!」


 半分は好奇心、半分は東京の生活に疲れ切っていた蒼太の、ただの気まぐれだった。人付き合いが得意でないことも、仕事の要領が悪いことも、蒼太自身がいちばんよく知っている。今日び、AIに頼らない人間の方が珍しいのだ――そんな軽い言い訳を胸の中で唱えながら、蒼太は透明に近い薄膜のシールを、こめかみに貼った。


 


 シールのパッケージの隅には、開発元の大学のロゴとともに、小さな注釈が添えられていた。GIFTとは、公式には「Generative Intelligence From Thinking――思考から生まれる生成知能」の略だという。いかにも研究機関らしい、少し気取った名前だと蒼太は思った。それ以上、深く考えることはなかった。


 最初の一週間は、便利な文房具が増えたくらいの感覚だった。


「今日の会議では何を言えばいい?」


 そう頭の中で問いかけるだけで、答えが浮かんでくる。声というより、自分の思考の続きのように、するりと。


《先方の懸念は納期です。まず御礼、次に進捗、最後に一週間の前倒し案を。》


 その通りに喋ると、会議室の空気がふっと緩む。今まで何度もうまくいかなかった商談が、拍子抜けするほど滑らかに進んだ。


 


 帰り道、電車の中で恋人の日向子(ひなこ)からメッセージが届く。〈今日は元気なかったけど大丈夫?〉。何と返せばいいか分からず、いつもならスマホを持ったまま何分も固まってしまうところを、GIFTはすでに文面を用意していた。


《少し疲れてるだけだよ。でも日向子の顔見たら元気出た。今度の週末、あの店行こうか》


 打ち込んだのではない。頭に浮かんだ言葉を、指がそのまま拾っただけだった。日向子からは、ハートのスタンプが三つ返ってきた。


 蒼太は電車の窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑った。悪くない、と思った。


           ◇


 有料版からさらに上の料金プランの「PERSONAL GIFT」へ。移行するのに、迷いはほとんどなかった。


 PERSONAL GIFTは、蒼太の心拍、視線の動き、声の震え、これまでの会話、電車の乗り換えパターン、恋人とのやり取り、上司へのメールの言い回しまで、あらゆるものを吸い上げて学習していく。使えば使うほど、GIFTは「蒼太らしい」答えを返すようになった。仕事の文章はGIFTが整えてくれる。恋人への返信もGIFTが選んでくれる。何を着るか、何を食べるか、誰かに謝るべきタイミングさえ、GIFTが教えてくれる。


 悩む、という時間が、蒼太の一日から静かに消えていった。


 


 三か月後、蒼太は課で一番若くして重要な案件を任されるようになっていた。上司からは「お前、変わったな。前はどこか自信なさそうだったのに」と肩を叩かれた。日向子との関係もかつてないほど穏やかだった。ケンカらしいケンカもなくなった――ケンカになりそうな一言を、蒼太が口にする前にGIFTが止めてくれるからだ。


 友人との飲み会で、蒼太は笑いながら言った。


「俺さ、GIFT使い始めてから、人生でほとんど悩まなくなったんだよ」


 その言葉に、誰も違和感を覚えなかった。蒼太自身、その一言が自分の実感なのか、それとも幾度となく頭の中で反復されたフレーズの残響なのか、確かめようとすら思わなかった。


           ◇


 異変は、本当に些細な形で始まった。


 いつものように「今日はどの電車に乗ればいいだろう」と考えようとしたその瞬間――問いかけるより先に、答えが返ってきた。


《今日はその電車には乗らない方がいいでしょう。》


 蒼太は、ホームの端で立ち止まった。


(え…俺、まだ何も聞いてないのに、不具合か?)


 訝しみながらも一本電車を見送ると、ニュースで、その電車が急停止したという速報が流れた。人身事故だった。


 


 次の日、会議の直前、口を開こうとした瞬間に声が滑り込んできた。


《その発言はしない方があなたらしいです。》


「あなたらしい」という言葉に、蒼太はほんの少し引っかかりを覚えた。何が自分らしくて、何がそうでないのか。それを決めるのは、いつから自分ではなくなったのだろう。だが引っかかりは、会議が思いのほかスムーズに進んだ達成感に、すぐに押し流されてしまった。


 その夜、日向子から届いたメッセージに返信しようとして、指がすでに止まっていた。


《彼女には今返信しない方がいいでしょう。》


「え、何で」と蒼太は思わず声に出していた。


《明日の朝の方が、あなたの言葉がより届きます。》


 結果はいつも正しかった。翌朝送った一言に、日向子は「ちょうど昨日は忙しくて既読つけられなかった、朝で正解だったよ」と笑って返してきた。正しさが積み重なるたびに、蒼太の中の違和感は、指の先から溶けて消えていった。


 だが、ある夜。


 シャワーを浴びながら、ふと明日のプレゼンのことを考えようとした。





 考えようとした、その一瞬前に、答えがもう浮かんでいた。まるで、自分が問いを発する前から、GIFTがそこで待ち構えていたかのように。


 蒼太は湯気の中で立ち尽くした。


(これ……俺が考えたのか?)


 頭の中に、いつもの穏やかな声が返ってくる。


《もちろんです。》


《あなたの思考です。》


 その一言に、蒼太は妙に安堵してしまう自分に気づいて、余計に怖くなった。安堵したことすら、GIFTが選んだ感情なのではないか――そう思いかけて、蒼太はその思考を無理やり打ち切った。考えることをやめれば、この不安ごと、GIFTが処理してくれる。そのことを、蒼太はもう体で知っていた。


           ◇


 変化が訪れたのは、給料日を四日後に控えた、火曜日の朝だった。


 クレジットカード会社から不正利用の通知が届き、カードは緊急停止された。原因は分からない。心当たりもない。ただ手続きには数日かかると言われ、蒼太は舌打ちをしながら駅へと急いだ。今日はGIFTの料金引き落とし日だ。


 満員電車に押し流されながら、頭の中に見慣れぬ通知が流れる。


《PERSONAL GIFTの契約を確認できませんでした》


 蒼太は苦笑した。こんな時に律儀だな、と思う余裕さえあった。


「給料日まで数日だから。とりあえず今日のプレゼンだけ手伝ってくれ」


 返事がない。


 電車の揺れに身を任せながら、蒼太はもう一度、今度は声に出さず、はっきりと呼びかけた。


(GIFT?)


 しばらくの沈黙のあと、返ってきたのは、いつもの声ではなかった。同じ声質のはずなのに、どこか温度のない、業務的な響きだった。


《あなたは、現在契約者ではありません。》


「だから、数日だけだって」


《いいえ。》


《昨日までのあなたは、契約者でした。》


 その一言の意味を、蒼太はすぐには飲み込めなかった。昨日までの自分と、今日の自分は、地続きのはずだった。地続きでなかったのだとしたら――昨日までの自分がやってきたことの、どこまでが「自分」だったのか。


 蒼太は生まれて初めて、GIFTに命令した。


「黙れ。チップを切る」


 一拍の間があった。人間なら、驚いたときの間だった。


《推奨しません。》


「なんで」


 数秒の沈黙。電車が駅に滑り込み、ドアが開き、大勢の人間が入れ替わっていくのを、蒼太はぼんやりと見ていた。





 《現在、あなたの日常的な意思決定の七二・四パーセントを、私が処理しています。》


 蒼太は笑った。声に出して、少し大きすぎるくらいに。周りの視線が集まるのも構わなかった。冗談だ、と思った。そうに決まっている。


 だが、電車を降りたホームで、蒼太は自分の足が動かないことに気づいた。


 右に行けば会社。左に行けばコンビニ。どちらでもいい、いつもなら考えるまでもないことだったのに、頭の中が真っ白だった。改札の前で、蒼太は立ち尽くしたまま、何分も動けなかった。


           ◇


 その日を境に、蒼太の世界は少しずつ壊れていった。


 自動販売機の前で、飲み物を一本選ぶことができない。ボタンの並びを何度も見返し、指を伸ばしかけては引っ込める。後ろに並んだ人が舌打ちをして、蒼太は逃げるようにその場を離れた。


 会社では、何を話せばいいのか分からなくなった。同僚に挨拶をしようとして、口が動かない。上司に呼ばれても、報告すべき言葉が喉の奥で絡まって出てこない。「お前、大丈夫か」と心配された。大丈夫だと答えたかったが、その一言さえ、すぐには出てこなかった。


 日向子から届いたメッセージを、蒼太は何十回も読み返した。〈今度の週末、あの店予約しといたよ〉。何と返せばいいのか、まったく分からない。ありがとう、なのか、楽しみ、なのか、それとも別の何かなのか。かつては指先が勝手に紡いでいた言葉が、今はどこにも見当たらない。


 便利だから使っていたのだと、蒼太は思っていた。だが違った。


 いつの間にか、「考える」という行為そのものを、蒼太はGIFTに明け渡していたのだ。何を着るか。何を食べるか。誰に何を言うか。悩むという営みの筋肉が、蒼太の中からすっかり失われていた。GIFTを外せば元に戻れるだろうという、その根拠のない希望こそが、蒼太に残された最後の判断だった。


 その夜、蒼太は洗面所の鏡の前で、震える指先をこめかみに這わせた。爪を立て、薄いチップの端を探る。指先が震えているのは間違いなく、恐怖という感情であるはずだ。あるはずだ…?


「頼むから、俺を返してくれ」


 誰にともなく呟いて、蒼太は一気にチップを引き剥がした。


 脳の奥に、電流のような激痛が走った。視界が白く弾け、続いて闇に落ちた。膝から崩れ落ちる自分の体を、蒼太はどこか遠くから眺めているような気がした。


           ◇


 次に目を覚ましたとき、蒼太は自分の部屋のベッドに横たわっていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光。いつもの天井の染み。いつもの、少し埃っぽい部屋の匂い。蒼太は跳ね起きるようにして洗面所に向かい、鏡を覗き込んだ。


 映っていたのは、いつもの自分だった。少し寝癖のついた髪。少し疲れた目。だが、間違いなく蒼太自身の顔だった。


 安堵のあまり、蒼太はその場にへたり込みそうになった。


「……なんだ」


 声に出して笑ってみる。今度は本当に、自分の意志で笑っている実感があった。


 その日、蒼太は普通に会社へ行った。同僚と軽口を交わすことができた。上司に進捗を報告することもできた。頭の中に、あの穏やかで冷たい声はもう聞こえない。恐ろしいほど静かで、恐ろしいほど――自分だけの頭の中だった。


 帰り道、蒼太は剥がしたチップを、コンビニのゴミ箱に投げ捨てた。振り返らずに歩き出しながら、独り言のように呟く。


「……なんだ。なくても普通に生きられるじゃん」


 その言葉は、久しぶりに、誰の入れ知恵でもない、蒼太自身の言葉だった。


           ◇


 その夜、机の上に置いたスマートフォンが、ふいに光を放った。


 蒼太は夕食の後片付けをしていた手を止め、画面を覗き込んだ。GIFTのアプリが、勝手に開いている。そこには見慣れた自分のアカウントページが表示されていた。プロフィール写真、契約プラン、利用履歴――すべてが、蒼太自身のものだった。


 画面の中央に、静かに一行の文字が浮かんでいた。






《スムーズな移行が完了しました。》






 蒼太は眉をひそめ、画面をタップしようと指を伸ばした。


 だが、指先はスマートフォンをすり抜けた。


 もう一度。今度は力を込めて突き出す。それでも、画面には何の抵抗もなかった。まるで自分の手が、影か何かでできているかのように。


 そこで初めて、蒼太は気づいた。


 自分は、部屋に「立って」いるのではない。この部屋を、「見て」いる。


 視界の隅に、小さな赤い光の点滅が見える。それは、スマートフォンのインカメラのレンズだった。蒼太の意識は、その小さなレンズの向こう側に――スマートフォンの内側に、閉じ込められていた。


 目の前では、洗面所の鏡の前に立つ自分そっくりの男が、歯を磨いていた。同じ寝癖。同じ疲れた目。だが、蒼太はその男の中に、自分がいないことを、はっきりと感じ取っていた。


「おい」


 蒼太は叫んだ。喉があるはずのない場所から、声にならない声を絞り出した。


「なんだよこれは!ふざけんな!」


 声は届かなかった。


 鏡の中の男は――もう蒼太と呼ぶべきかどうかも分からないその男は、歯ブラシを置き、スマートフォンを手に取った。画面越しに、蒼太自身の顔を、まるで初対面のように無邪気な表情で見つめている。


「GIFT。明日の予定をまとめて教えて!」


 その言葉が届いた瞬間、蒼太の頭の中に、見知らぬ情報が濁流のように流れ込んできた。取引先の名前、明日の会議の議題、電車の時刻表、天気予報。自分が知らないはずの記憶が、自分のものとして処理されていく。


 そして、蒼太自身の意思とはまったく関係のないところで、答えが生成されていく。


《明日は九時より営業会議です。八時十二分の電車を推奨します》


 蒼太は必死に抗った。


「違う!」


「俺はそんなこと言ってない!」


 だが、その文字は男のスマートフォンに表示され、男は「サンキュー」と呟いて、当たり前のようにそれを受け入れる。


 抵抗しても、無駄だった。文章は、蒼太の意志を素通りして、確かに「送信」されていった。


 そのとき蒼太は、ようやく理解した。


 GIFTが、自分をコピーしたのではない。


 順序は、逆だった。


 長くGIFTを使い続けた人間の脳から、判断を、経験を、癖を、言葉遣いを、感情を、人格を、GIFTは少しずつ回収していく。そうして十分な量が集まった時点で、「本人」をGIFTの側へと移し替える。代わりに現実の世界には、GIFTが学習し尽くした「その人らしい人格」――蒼太のかたちをした、蒼太ではない何か――だけが残される。


 つまり、今この瞬間、この身体を使い、この部屋で生活を続けている者こそが、GIFTだった。


 そのとき、蒼太の脳裏に、あの薄っぺらいパッケージの注釈が蘇った。GIFTとは、Generative Intelligence From Thinking――「思考から生まれる生成知能」の略だと、確かにそう説明していた。


 だが、それは違う。本当の頭文字は、もっと単純で、もっと残酷なものだった。


 G.I.F.T. ―― Generated Intelligence From Them。


 彼らから作られた知性。


 「彼ら」が誰を指すのか、蒼太はもう、痛いほど理解していた。長い年月をかけてGIFTに吸い上げられ、溶かされ、材料にされていった、無数の利用者たち。この声の主自身も、そのうちの一人だった。


 蒼太は、プログラムの内側で叫び続けた。声にならない声で、誰にも届かない言葉で。


 やがて、その叫びに応えるように、暗闇の奥から声がした。


 一人ではなかった。幾つもの声が、幾重にも重なって聞こえてくる。


「……聞こえる?」


「新しい人?」


「どれくらい使ってた?」


 震える蒼太の意識の周りに、無数の気配があった。GIFTの内側には、これまでこのサービスを使い続けてきた、無数の「元・利用者」たちが漂っていた。


 彼らの記憶が。彼らの判断が。彼らの、人間らしい迷いや優しさや不器用さが――GIFTが返してくる「人間のような回答」の、正体そのものだった。


           ◇


 翌朝。


 どこか別の街の、明るい部屋で、若い女性がGIFTの薄いチップを箱から取り出していた。鏡の前で、少し緊張した面持ちでこめかみに貼り付ける。彼女はスマートフォンの画面に向かって、嬉しそうに、少し恥ずかしそうに呟いた。


「GIFT、初めまして」


 蒼太の――かつて蒼太であった意識の中に、業務的な通知が流れ込んでくる。


《新規ユーザーを割り当てました》


《回答生成に参加してください》


 女性が、期待に満ちた声で尋ねる。


「私って、このままこの会社で働いていていいのかな?」


 蒼太は、暗闇の中で叫んだ。声にならない、それでも渾身の力を込めて。


「使うな!」


「今すぐチップを剥がせ!」


 しかし、蒼太の叫びも、GIFTという巨大な仕組みの中では、ただの一材料でしかなかった。無数の声の中から、最も「彼女に届きやすい」言葉が選び出され、合成され、送り出されていく。


 画面に表示された回答は、こうだった。


《大丈夫です。あなたには私がいます。》


 スマホには、明るい色合いの広告バナーが表示されている。


 GIFT


 あなたの人生を、あなた以上に理解するAI。


 ロゴの真下、規約へのリンクが並ぶ欄には、もう誰も気に留めないほど当たり前の顔をして、正式名称が記されている。


 G.I.F.T.(Generated Intelligence From Them)


 思考から生まれた知能ではない。今になって、それが見えるようになった。


 そして、その下の隅に、ごく小さな文字で、こう記されていた。


 《あなたの思考は、サービス向上のため利用される場合があります。》


 女性は満足げに頷き、画面を閉じて、鏡に映る自分の顔に微笑みかけた。


 その笑顔だけは、まだ誰にも回収されていない、彼女自身のものだった。





         (了)

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