未知なるギフト
笑顔で差し出されたその手をしばらく見つめてから、俺はあえて無視し視線を遺体の方へと向けた。
「それより先に、この状況をどうにかするべきだろ」
治安維持局――王国の公的機関。
堅実な仕事で、報酬もかなりいいと聞く。
そこから直々に声をかけられるなんて、本来なら願ってもない話だ。
だが、相手がこの少女というのが問題だった。
まともに話も聞かず、いきなり斬りかかってくるような人間が上にいる組織なんて、まともだとは思えない。
最低限の協力だけして、スカウトの話はうやむやにしてしまおう。
リゼットは差し出したままの手を見つめ、何度かグーパーした。
「うーん……ま、それもそうだよね」
そう言うと、遺体のそばへ歩み寄ってしゃがみ込む。
「じゃあ、まず情報を整理しようか。発見時の様子を教えてよ」
「ああ、冒険者ギルドで受けた薬草採取の依頼中、『お前のせいだ』って叫び声を聞いてここへ来た。そしてここで遺体を見つけたんだ」
「なるほどね、それでギフトを使って手がかりを得ようとしたんだね」
「そうだ」
リゼットの言葉を肯定するように頷く。
「傷口から見て、凶器は近くに落ちてた大剣。しかも左利きの可能性が高いね」
「状況だけ見れば、冒険者同士の揉め事が殺しに発展した……って感じだな」
「ノアは、被害者のこと知ってるの?」
「ああ。ヴェイル・アディス。Aランクパーティー《不滅の残火》所属の冒険者だ」
「ふーん、彼女がね……それで」
リゼットはしゃがんだまま、俺を見上げた。
「君は、そのギフトで何を知ったの?」
俺は再びギフトを発動させ、先ほど引き出した“過去”が記された頁を開く。
「それ、わたしも見れるの?」
言うなりリゼットは立ち上がり、ぐいっと俺の腕を引き寄せて本を覗き込んだ。
肩が触れそうなほど近い。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
こんな状況でなければ少しは意識したのかもしれない。
だが今は、血の臭いの方がずっと強く、現実を引き戻してくる。
「いや……前に他の人にも見せたことはあるけど、駄目だった。読めるのは俺だけらしい」
本そのものは他人にも見えている。
だが中身は、他人には真っ白にしか見えない。
「そっか……それは残念――って、あれ? 読めるよ?」
「は?」
「でも変だよ……これ、わたしの目で見えてる感じじゃない」
リゼットは一度手を離してから、さらに顔を寄せ、俺の顔と本を見比べた。
「ノア、ちょっと目を閉じて。両目、右目、左目の順で」
「……こうか?」
言われた通りにすると、リゼットは俺の腕に触れたり離したりしながら、何度か位置を変えて確かめる。
「うん。やっぱりそうだ。これ、君の左目を通して見えてるみたい」
「……何だって?」
「わたしが君に触れてる間だけ、この本の文字が見えるの。たぶん、君の左目越しに見てるんだと思う」
そう言って、リゼットは俺の腕から手を離した。
「今はもう読めない。やっぱり、触れてる間だけみたいだね」
俺は無意識に左目へ指先を触れた。
だけど、何かが変わった感覚はない。今もそこには視界なんてない。
以前、左目の視力を失う前にレインが俺に触れたままこの本を見た時は、読めなかった。
それなのに今はリゼットには読める。
ギフトの限界を超えた代償を受けてから起きた変化。
これは見過ごせない。
「ふふ、興味深いね。時間ができたらじっくり調べたいな」
全力で遠慮したい申し出だったが、俺は聞こえなかったふりをした。
「なら話は早い。直接見てくれ」
俺は《残響記録》によって書き出された、ヴェイルの過去をリゼットと共に改めて読む。
ヴェイルは深く暗い森の奥へと招かれた。
理性を失った影は彼女を断罪する。お前が殺したのだ、お前が救わなかったのだと。
ヴェイルは懺悔する。だが、獣は止まらない。
狩りは果たされず、断罪もまた遂げられない。
やがて獣は倒れ、ヴェイルはそれに触れた。
その瞬間、落ちるはずだったものは留まり、留まるはずだったものは落ちた。
影はもはや元の影ではなく、ヴェイルもまたヴェイルのままではいられない。
森にはただ、破滅だけが残された。
「抽象的というか……ずいぶん回りくどい言い方だね」
「ああ。俺のギフトで引き出せる情報は、俺の知識の範囲でしか表現できないんだ」
「知識の範囲でしか、って?」
「要するに、俺がその場で見ていたなら、こう理解するはずだ――そういう形でしか書けないってことだ。知らないものは、知らないままの形でしか出てこない」
《残響記録》は有能だ。
知るはずのなかった過去を引き出せる。
だけど、全能じゃない。
記されるのは、あくまで俺の理解が及ぶ範囲だけ。
だから表現は曖昧になるし、抽象的にもなる。逆に知識があれば、もっと直接的な形で現れることもある。
「なるほどね。でも、それはそれで悪くないかな。むしろ謎解きのしがいがあるってものだよ」
子どもみたいに目を輝かせるリゼットを見て、背筋に薄い寒気が走った。
最初に遺体を見た時、俺自身も興奮しかけていた。
人のことは言えない。
それでも、目の前に死者が横たわっている状況で、こんなふうに目を輝かせられるものなのかと思ってしまう。
「ん? どうしたの?」
いつの間にか手を離していたリゼットが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……いや、何でもない。それより、この文章の意味を考えよう」
「それなら、もう終わってるよ!」
そう言うなり、リゼットはどこからともなく紙とペンを取り出し、文章の内容を手早く書き出していった。
・ヴェイルは誰かに招かれて森へ向かった
・待っていた相手は理性を失っていた
・相手はヴェイルを恨み、襲いかかった
・だが争いの末に相手は倒れ、その直後、ヴェイルにも異変が起きた
「こんな感じかな」
それを見て、俺は素直に驚いた。
たしかに、あの文章はそう読める。
それでも、一度目を通しただけでここまで噛み砕けるものなのか。
やはり、こいつの推理力は本物だ。
「ノアのおかげで、確信に近づいたよ」
「確信?」
「うん。間違いなく、これはギフトが関わってる犯行だよ」
「それは……ヴェイルが相手を返り討ちにしたはずなのに、ここに死んでいるのがヴェイルだからか?」
「その通り!」
リゼットはぱっと顔を上げた。
「普通なら、致命傷を負った側がそのまま死ぬはず。なのに、ここにある遺体はヴェイルだけ。しかもノアは叫び声を聞いて、すぐこの場に駆けつけてる」
そこで一度言葉を切り、リゼットは鋭く目を細めた。
「なら、ヴェイルと対峙していた相手は、その場から消えたか、生きて去ったかのどちらか。どっちにしても、ただの殺しじゃ説明がつかない。だったら、そこにギフトの介在を疑わない理由はないよ」
その推測はもっともだと思った。
魔法は、一見すると不可思議な現象に見えても、理論と術式に基づいて再現できる力だ。
俺が左半身を動かしているのも、その延長にある。
だけど、ギフトは違う。
理屈では割り切れず、説明しきれない形で世界に干渉する。
そして俺の《残響記録》が、ヴェイルの遺体からこれほど曖昧な形でしか過去を示せないなら、そこにあるのは魔法の理では届かない何かだ。
リゼットは、またしても楽しそうに目を輝かせながら再びしゃがみ込み、ヴェイルの顔を見つめた。
ヴェイルの表情は損傷した遺体の惨状とは裏腹に穏やかだった。
まるで、自分の運命を受け入れたまま静かに眠っているかのように。
「もうすぐ現場を保全する職員たちが来るの。だから、今日のところは帰って大丈夫だよ」
ヴェイルの顔から目を離さないまま、リゼットはそう言った。
「ああ、分かった」
短く答え、俺は背を向けてその場を離れる。
しばらく歩いたあと、一度だけ振り返った。
リゼットはまだ遺体のそばにしゃがみ込み、じっとヴェイルを見つめている。
その表情はここからでは見えず、何を思っているのかも分からない。
一体、ヴェイルの身に何が起きたのか。
《残響記録》が伝えたものは、何を意味していたのか。
胸の内にあるのは、好奇心だけじゃない。
得体の知れない不穏さと、拭えない引っかかりだった。
ここから先は俺の役目じゃない。
そう割り切ろうとした、その時――
月が雲に隠れ、リゼットとヴェイルの姿に闇が落ちた。
俺は足を止めたまま、しばらくその光景から目を離せなかった。




