真理宣言・祝福《トゥルー・ディクレア・ベネディクション》
世界の文字が震え刻まれた文章が、ゆっくりと書き換わっていく。
――リゼットの左脚は石化した。
その一文が揺らぎ、滲み、形を変える。
――石化の影響は、盾の残響と魔力干渉によって薄れ、左脚の機能は失われなかった。
瞬間、リゼットの左脚を覆っていた灰色が、ひび割れるように剥がれ落ちた。
「っ……!」
リゼットが息を呑む。
彼女は左脚を動かし、感覚を確かめるように地面を蹴った。
「動く……」
「完全に戻したわけじゃない。長くは持たない」
「十分だよ」
リゼットは細剣を握り直した。
その目に、再び光が戻る。
「何をすればいい?」
「バジリスクの注意を引きつけてくれ。できるだけ派手に。だけど深追いはするな」
「注文が多いね」
「相棒だからな」
「たしかにそうだね」
リゼットが笑う。
次の瞬間、彼女はガルドの盾を俺たちのそばへ滑らせるように投げ戻し、地を蹴った。
銀の軌跡が、レヴナントバジリスクの視界を横切る。
「こっちだよ、化物!」
リゼットがレヴナントバジリスクの前脚へ斬りかかる。
攻撃は通らないけど、挑発には十分だった。
レヴナントバジリスクの濁った黄金色の瞳が、リゼットを追う。
俺はその間に、術式を組み上げる。
左半身の制御を捨てた今、俺はこの場から動けない。だけど、その代わりに俺の演算領域は空いている。
複雑な魔法陣が、頭の中に幾重にも展開される。
火属性上位式。
圧縮。収束。熱量増幅。空間固定。爆炎の範囲限定。
さらに、その外側へ『残響記録・調律』を重ねる。
炎が広がる結果を書き換え、爆発が洞窟全体を呑み込む範囲を狭める。
破壊を、レヴナントバジリスクの周囲にだけ留めるために。
もう少しで、術式の構築が終わる。
そう思った瞬間、レヴナントバジリスクが不意に動きを止めた。
濁った黄金色の瞳が、こちらを向く。
気づかれた。
俺が組み上げている魔法の危険性を、本能で悟ったのだ。
喉奥が灰色に輝き石化のブレスを放とうとする。
標的はリゼットではなく俺だ。
「ノア!」
リゼットが叫ぶが、間に合わない。
俺は大魔法の制御に、すべてを注いでいるため魔力障壁を張れない。
ここで術式を乱せば、俺たちは勝てない。だから動けないし、避けられない。
灰色の奔流が放たれたその瞬間。
「させないわ!」
俺の前に、エルナさんが飛び込んだ。
「エルナさん!?」
まだ立っているだけでも辛いはずなのに。
彼女は俺の前へ出て、リゼットが投げ戻したガルドの盾を拾い上げ、真正面から構えた。
石化のブレスが、エルナさんを呑み込む。
「ぐっ……!」
盾が軋み、エルナさんの腕が震える。
灰色の風が盾の端から漏れ、彼女の肩を、頬を、右腕の一部を石へ変えていく。
それでも、エルナさんは退かなかった。
「ノアくん……!」
エルナさんが叫ぶ。
「お願い!」
その声に、迷いが断ち切られた。
「……ああ!」
最後の術式がつながると、洞窟の空気が変わった。
闇が、熱を帯びる。
冷たい石の匂いが、灼けた鉄のような匂いへ変わっていく。
レヴナントバジリスクが咆哮した。
だが、もう遅い。
俺の周囲に、幾重もの魔法陣が展開される。
赤。橙。白。
やがてそれは、太陽のような白金の光へ変わった。
「最上位炎熱殲滅術式――」
声を絞り出す喉が焼けるように痛い。
それでも、言葉を止めなかった。
「『極焔天墜』《プロミネンス・フォール!》」
洞窟が、昼よりも明るく染まり白い炎が生まれ、世界を塗り潰す。
だけど、その炎は洞窟全体へ広がらない。
『残響記録・調律』によって、炎の行き先は書き換えられていた。
爆炎は、レヴナントバジリスクの周囲にだけ留まる。
逃げ場のない炎の檻。圧縮された熱量の渦。
白金の炎が、硬い鱗を焼き、肉を焼き、骨を溶かす。
レヴナントバジリスクが洞窟全体を揺るがす断末魔を発した。
あの化物だけを焼き尽くすため、俺は歯を食いしばり、術式を押さえ込む。
暴れ狂う炎の未来を、何度も調律する。
広がるな。崩すな。巻き込むな。燃やすべきものだけを燃やせ。焼き尽くすべき罪だけを焼け。
すべての始まりとなった闇を、ここで葬れ!
やがて、光が収まり、熱風が洞窟内を駆け抜ける。
レヴナントバジリスクは、まだ立っていた。けれど、それはもう生き物ではなかった。
黒く炭化した鱗に、無数の亀裂が走り、濁った黄金色の瞳が、白く濁って砕ける。
やがて、巨体がぼろぼろと崩れ始めた。
まるで灰になった過去が、ようやく地面へ還っていくようだった。
ドオオオオン、と重い音を立てて、レヴナントバジリスクの体が崩れ落ちる。
あとは、焼け焦げた鱗と、灰と、静寂だけが残った。
「……終わった、のか?」
声を出したつもりだったけれど、うまく出ない。
喉から漏れたのは、掠れた息だけだった。
体が動かず、指先ひとつ、動かせない。
右腕も、右脚も。もちろん、左半身も。
左半身の制御術式を切った代償だけじゃない。
『残響記録・調律』を限界まで使った反動が、残っていた右半身の制御まで奪っていた。
俺はもう、自分の体を動かせない。
魔道書に触れることも。
立ち上がることも。
リゼットの隣に並ぶことも。
「ノア!」
リゼットが駆け寄ってくる。
エルナさんも、石化した腕を押さえながら膝をついた。
「ノア、しっかりして!」
リゼットの顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
珍しいな、と思った。
こんな時なのに、そんなことを考えていた。
「……悪い」
声が出たかどうかも分からない。
「少し、無茶しすぎた」
「少しじゃないよ、ばか」
俺の手を握ったリゼットの手は震えていた。
「何をしたの。身体の制御術式は?」
「切った」
「右は? 右の手足も動かせないの?」
「……ああ。それが、俺のギフトを使った代償だ」
俺は二人に笑って見せた。
リゼットの顔から血の気が引き、エルナさんが息を呑んだ。
俺はもう、この先、自分の意思で身体を動かすことはできないだろう。
だけど、不思議と悔いはなかった。
仲間を。相棒を。今度こそ守ることができた。
レイン。すまない。
お前のことを元に戻してやるのは、難しそうだ。
「バカ!」
リゼットが叫んだ。
その声が、洞窟に反響する。
「なんでそんなことを……!」
大粒の涙が、リゼットの瞳からこぼれ落ちた。
それでも、俺の手を握る力は強まっていく。
「ノア。聞いて」
リゼットの声が変わった。
泣きながら震えているのに、不思議なほど強かった。
「君は、ここで終わる人じゃない」
「リゼット……?」
「君は、わたしの相棒。これからも、わたしの隣に立つ人」
リゼットの背後に、淡い光が集まり始める。
これまで彼女が真実を暴き、積み重ね、使わずに溜め込んできた力。
そのすべてが、徐々に輝きを増していく。
「わたしの『真理宣言』の祝福は、わたしを強くするだけじゃないんだよ」
光が強くなる。
リゼットの髪が揺れ、瞳が真昼の星のように輝く。
そして、夜空を連想させる銀髪が、太陽のように眩い金色へと変わっていく。
「わたしの願いを、積み重ねてきた真実の重みだけ叶えてくれる」
リゼットは、俺の手を両手で包み込んだ。
静かに、そして力強く。実に願うように、言葉を発する。
「ノア・フェルドは、ここで終わる人じゃない」
胸の奥で、何かが脈打った。
「君は、わたしの相棒として、これからも隣に立つんだよ」
失われた感覚の奥に、細い光が差し込む。
「だから、その身体は、君が君であるために必要な自由を取り戻す」
リゼットの瞳から、また涙が落ちた。
それでも彼女は、最後まで俺を見つめていた。
「真理宣言・祝福」
その瞬間、光が俺の身体へ流れ込んだ。
右腕に熱が戻り、右脚に感覚が戻っていった。




