残響記録・調律《エコーズ・レコード・コンペンセーション》
俺は岩壁の隙間へ飛びつき、半ば埋もれた盾の柄を掴んだ。
「ぐっ……!」
馬鹿みたいに重い。
だが、この重さは、ただ瓦礫に噛み込まれているせいだけじゃない。
この盾には、ガルドという男が背負ってきたものが刻まれている。
仲間を守るために受け止めてきた衝撃。
誰かを前へ進ませるために、たった一人で踏みとどまってきた時間。
そのすべてが、腕に、肩に、心にのしかかってくるようだった。
それでも。
「動けええええええっ!」
右腕に魔力を集中させる。
左半身が軋み、視界が揺れる。
体中の血が、沸騰するように熱くなる。
それでも俺は、盾を引き抜いた。
岩が砕け、傷だらけの盾が、洞窟の空気に晒された。
レヴナントバジリスクの喉奥が、灰色に輝いている。
石化のブレスが今にもリゼットへ放たれようとしていた。
俺が持って走っても間に合わない。
なら――。
「リゼット!」
俺は全身の力を込めて、ガルドの盾を投げる。重い盾が、リゼット目掛けて唸りを上げながら宙を飛ぶ。
リゼットが顔を上げる。
一瞬だけ、俺と目が合った。
それだけで十分だった。
彼女は迷わず手を伸ばし、飛来した盾の柄を掴む。
その直後、石化のブレスが放たれ、灰色の奔流が、リゼットへ襲いかかる。
「くっ……!」
リゼットは盾を構えた次の瞬間、石化のブレスが盾を真正面から飲み込む。
ガルドの盾が軋み、表面が灰色に染まり、刻まれた傷跡が淡い光を帯びた。
それでも、盾は砕けなかった。
石化対策を施されたその盾は、かつてガルドが仲間を守った時と同じように、持つ者を灰色の脅威から守り抜いた。
「リゼット!」
ブレスを受けきったあと、リゼットは俺達の近くまでくる。
ほとんど片足しか使えないとは思えない身のこのしだけど、さっきより明らかに動きが鈍い。
「……大丈夫」
そう言うが、リゼットの表情は険しい。
左脚は動いておらず、石化した部分は、そのままだった。
「くそ……!」
俺は奥歯を噛みしめた。
ギガントバジリスクは休眠状態だと、高を括っていた。
最低限の対策だけで足りると判断した結果が、これだ。
リゼットの足を元に戻す手段がなく、戦況は依然として最悪だった。
視界が一瞬、揺れる。
血に濡れた地面。
瀕死の重傷を負いながら、それでも俺に笑いかけようとしていた幼馴染み。
《黎明の剣》のリーダー、レイン。
あの日、俺は間に合わなかった。
手を伸ばしても届かず、守りたいと思った相手を守れなかった。。
次に浮かんだのは、リゼットの顔だった。
何も疑っていないような、無邪気な笑み。
俺の隣で、当然のように笑っていた顔。
俺は、彼女の相棒だ。
なら、ここで終わらせるわけにはいかない。
「……リゼット」
魔道書を開く指先は震えていた。
それでも、やるべきことは分かっている。
左半身を支える魔法術式――それは、今の俺が立ち、歩き、戦うための命綱だ。
それを切れば、俺は無防備になる。
だけど、大規模術式とギフトを同時に発動するには、身体制御に回している演算領域をすべて空ける必要があった。
危険すぎる賭けだ。
以前、ギフトの力を限界まで使った時、俺は左目の視力と左半身の自由を失った。
たとえこの戦いを終えることができても、今度は何を失うか分からない。
一度失えば、二度と戻らないかもしれない。
それでも。
リゼットが死ぬよりは、ずっといい。
「ノア……?」
リゼットが俺を見るその顔に、わずかな不安が浮かんだ。
俺は笑いかける。うまく笑えたかどうかは分からない。
「少しだけ、無茶をする」
「それ、少しで済む顔じゃないよ」
「悪い」
俺は左半身を制御している術式へ意識を向けた。
複雑に絡み合った魔力の糸。
レインを死の淵から救った時から、俺の身体を支え続けてきた術式。
それを、ひとつずつ切っていく。
最初に左脚から感覚が消えた。次に左腕が、だらりと垂れる。
身体の半分が、まるで自分のものではなくなっていく。
だけど、俺は止めなかった。
「ノア、待って。何を――」
リゼットの声が遠くなる。
ぶつん、と何かが切れた瞬間、俺はその場に崩れ落ちた。
左半身の支えを失ったことで、立っていられなくなったのだ。
自分の身体が、急に遠いものになったようだった。
惨めで、情けなくて、元Sランク冒険者が聞いて呆れる。
魔道書を抱えたまま地面にへたり込み、まともに立ち上がることもできない。
それでも頭の中は、かつてないほど澄み切っていた。
魔力が見え、術式が見える。世界に刻まれた記録の流れが、文字のように、線のように、俺の前に広がっている。
「リゼット」
俺は震える右手を、彼女へ差し出した。
「俺を信用して、身を委ねてくれるか?」
リゼットは一瞬だけ目を見開いたあと笑った。
石化した足を引きずりながら、ガルドの盾に体を預けながら。
それでも、いつものように、まっすぐ俺を見て。
「もちろんだよ、相棒!」
その言葉だけで、十分だった。
俺はリゼットの手を握り、内側から溢れ出した力を、彼女へ流し込んだ。
彼女の中に刻まれた記録が引き出されていく。
石化のブレスが左脚を掠めた瞬間。
皮膚が石へ変わり、筋肉が硬化し、神経が沈黙していく記録。
その一節に、俺は触れた。
「対象、リゼルディア・セレスト・フォン・エクセリア」
光の粒子が舞う。
俺とリゼットの間に、一冊の本が現れた。
白紙のページがめくられ、そこに文字が刻まれていく。
リゼットの左脚が石化するまでの記録。
それを、俺は指先でなぞった。
「残響記録・調律」




