例外
カイルは気分が高揚していた。
目の前の男――シュレム・グランベル。同じ神殿で同じ時期に鍛えながら、常に一歩先を行く男。その男が、いまは地面に膝をついている。
追いつけなかった差が、ようやく埋まる。今この瞬間、自分の方が上だという確信が、はっきりとある。自然と、口元が歪んだ笑みを浮かべた。
「シュレムもろとも——灰になれ!」
カイルの手のひらに集束していた炎が、解き放たれた。火球は唸りを上げながら一直線に走る。
空気が焼け、周囲の温度が一気に跳ね上がった。熱が来る。息を吸うだけで喉の奥がひりつく。距離はもうほとんどない。
シュレムは動けなかった。立とうとしても膝に力が入らず、呪いが内側から暴れて体の制御がきかない。魔法も使えず、成す術がなかった。
視界の端で、サリエナの背中が見えた。逃げる様子はなく、振り返ることもなく、ただそこに立っている。
「サリエナ……すまない」
思考が追いつかず、言葉だけが出た。火球はもう目の前で、灼熱の炎がサリエナもろとも焼き尽くす——
はずだった。
「ペシッ」
軽い音がした。サリエナの手が、まるで虫を払うかのようにわずかに動いた。
たった、それだけで火球の軌道があらぬ方向へとずれた。逸れた炎はそのまま空中で力を失い、拡散して消えた。
爆発は起きず、残った熱だけが遅れて流れた。静寂が場を包んだ。
「……え?」
カイルも部下たちも、信じられないという表情のまま固まっていた。
「な……なにをした」
カイルはようやく声を絞りだした。部下たちは固まったままで、誰も何が起きたか理解できていない。
サリエナは、何事もなかったかのように立っていた。
「何、今の」
サリエナは表情も変えずに、短くそれだけを言った。
直撃するはずだった火球が、手の一振りで軌道を逸らされ、消えてしまった。カイルの思考が追いつかない。
「ふ……ふざけるな」
カイルは低く吐き捨て、すぐに次の詠唱へ入った。
「リクエスト——我が名はカイル・アンリ、火の精霊使い。ゼリニシアよ、接続を——!」
詠唱は正確だったが、わずかに声が上ずっていた。
その瞬間、サリエナが動いた。地面を蹴り、その一歩でカイルとの距離を詰める。
「……っ!?」
速い、という感覚すらなかった。踏み出したはずなのに、次の瞬間にはもう近い。カイルは後退しながら即座にコマンドを重ねた。
「コマンド——火竜を生成。大地を這って焼き尽くせ。目の前の大地だ!」
地面に炎が走り、うねるように広がって逃げ場を塞いだ。しかし、炎がサリエナを捉えることはなかった。
サリエナは跳んだ。軽くではない。見上げるほどの異常な高さへ。
「……は?」
カイルの口から間の抜けた声が漏れた。視線が遅れて上がる。
サリエナは、空中で一度くるりと回ると、そのまま落下した。着地と同時に、大剣を地面へと振り下ろした。衝撃が走り、空気が揺れ、遅れて音が来た。
地面が震え、衝撃が円状に広がって周囲の兵士たちをまとめて吹き飛ばした。
魔法ではない。それだけは、はっきりしていた。
「ぐっ……!」
「なっ……!」
誰一人、踏みとどまれなかった。カイルの膝が、地面についた。
「……なんだ……これは……」
即座に立ち上がることもできず、カイルはゆっくりと視線をサリエナへ向けた。
サリエナは、そこに立っていた。何も変わらない顔で、まるで何事もなかったかのように、ただ静かにその場に立っていた。
精霊の気配も接続の痕跡もない。なのに、常人離れした身体能力。
カイルは混乱した。積み上げてきた前提が一つずつ崩れていく。自分が知っている敵の枠に収まらない。分類も、理解もできない。
「……撤退だ……!」
絞り出すような声だったが、判断に迷いはなかった。勝てないと判断したわけではない。戦うこと自体が間違いだと感じた。
この場に留まるべきではない。関わり続けてはいけない。その確信だけが異様なほど明確だった。
部下たちが弾かれたように動き、それぞれが腰のポーチから水晶玉を取り出した。透明な結晶の中で、淡い光が脈打つ。
一瞬のためらいのあと、各々がそれを地面へ叩きつけた。パキン、と乾いた音が連続し、砕けた水晶から光が溢れ出す。光は球体を形づくり、術者の身体を包み込んでいく。
光に包まれながら、それでもカイルは視線を外さなかった。シュレムではない。あの男はもうどうでもいい。意識はただ一つの存在に固定されていた。
あの少女は、何だ。何者だ。
答えは出ない。考えようとするほど思考は空回りし、理解が拒まれる。
次の瞬間、光が視界を覆い、世界が白く塗りつぶされ、音も感覚も断ち切られるように消えた。
追手たちの気配がすべて消え、静寂が戻った。遅れて吹いてきた風が、さっきまでの光景が現実だったことを思い起こさせる。
シュレムは動けなかった。何が起きたのか理解しようとしても思考が追いつかない。
サリエナが振り返った。
「……おわったよ」
いつもと変わらない顔で、それだけ言った。あまりにも軽く、あまりにも当然のように。
シュレムは、何も言えなかった。




