見つかった
街を出たのは翌朝だった。
澄み切った空気が、夜の冷えをわずかに残している。
しかし朝の光に押し出されるように、空気はゆっくりと温度を上げていく。
東の空は淡く明るみ、差し込む光が街道の端に伸びる草の先をひとつひとつ照らす。露に濡れた葉が細かく光を弾いていた。
遠くで鳥が鳴いている。風がやわらかく木々の間を抜け、そのたびに葉擦れの音が軽く重なっていく。
何事もなかったかのように、朝は整いきっていた。
だが、その空気の中で、シュレムの足取りだけがわずかに重い。
靴底が土を踏む感触が、妙に残る。歩いているだけなのに、身体の奥に鈍い疲れが溜まったまま抜けない。
シュレムの頭の中では、昨夜の光景が何度も繰り返されていた。振り払おうとしても、切り替えようとしても、同じ場面に戻る。
軽く言った言葉と、そのあとに続いた光景だけが、妙に鮮明に残っている。
この空の明るさと、自分の中の重さが、どこか噛み合っていなかった。
『腹減ってるんだろ? 奢るから好きなだけ食えよ』
そう軽口を叩いた自分を、今すぐ殴り飛ばしたい気分だった。
結果は、最悪だった。
テーブルに並んだ皿は、次々と空になっていった。一皿、二皿ではない。運ばれてくる端から消えていき、ほとんど間を置かずに皿が積み上がっていく。
店主が目を丸くし、周囲の客がざわつき始めた頃には、シュレムはすでに現実から目を逸らしていた。
「……おい、まだ食うのか」
「うん」
短い返事とともに、迷いなく次の皿に手が伸びる。止まらない。躊躇もない。
「いや待て、さすがに限度があるだろ……!」
思わずツッコミを入れるが、サリエナは聞こえていない様子で食べ続ける。
やがて提示された請求額を見た瞬間、シュレムは完全に思考が止まった。
「……は?」
冗談じゃない。一晩で、軽く数日分――いや、それ以上の旅費が吹き飛んでいる。
「……お前な」
横を見る。サリエナは満足そうでも、申し訳なさそうでもない。ただ、いつも通りの無表情でそこに座っていた。
「……ごちそうさま」
その一言に、シュレムは長く息を吐いた。
――完全に、やらかした。
街道を進むにつれて、人の往来はしだいにまばらになっていく。
朝の光が木々の間を抜け、地面にまだらな影を落としていた。鳥の声が響き、昨夜の喧騒が嘘のような静けさだった。
「街ってのはな、支部神殿を中心にできてる」
歩きながら、シュレムは口を開いた。サリエナがまともに聞いていないのはわかっている。それでも、黙っているよりはましだった。
「結界もそこ基準だ。神殿が管理して、シグナルを供給して、その上で住民が生活してる。離れれば離れるほど、当然シグナルは弱くなる」
「……ふーん」
「聞いてるか? これ、わりと重要な話なんだが」
「うん」
本当にわかっているのか怪しい返事だったが、シュレムは続けた。
「魔法は万能じゃねぇ。シグナルが届かない場所じゃ使えない。それだけは頭に入れとけ」
「……そう」
「……まあ、お前には関係ないかもしれないけどな」
小さく付け足す。サリエナは特に何も言わず、街道脇に咲く花をぼんやりと眺めている。聞いているのか、聞いていないのか――相変わらずわからない。
一刻ほど歩くと、街道は山の麓へと差し掛かった。
木々は密になり、いつの間にか人の気配は完全に途切れている。轍の跡だけが、この道が使われている証のように残っていた。
シュレムは手首の精霊感知環に目を落とす。光は二本。安定している。
「……この辺でも、まだ二本立つのか」
独り言のつもりだったが、サリエナが顔を上げた。
「何が?」
「精霊の気配だ。魔法が使えるかどうかの目安。見ろ、二本立ってるだろ。これが安定だ」
そう言って、シグナルバンドをサリエナに見せる。
「都市部なら三本立つ。逆に一本だと不安定。ゼロなら圏外だ。さっきも言ったが、圏外だと完全に使えなくなる」
「……ふーん」
それ以上の興味はないらしい。
その時、ふいに風が、止んだ。
唐突に、鳥の声も木々のざわめきも遠くの獣の気配も、すべての音が一斉に消えた。自然な静寂ではなく、何かが意図的に削り取ったような沈黙だった。
シュレムは足を止める。
耳を澄ます。何も聞こえない。だが気配はある。複数の人間が木々の間に散らばり、左右、前方、背後から逃げ道を塞ぐようにじわじわと包囲を狭めていた。
「ちっ……囲まれてるな」
「……?」
サリエナが首を傾げる。
「下がってろ」
低く言うと、サリエナは素直に一歩引いた。
シュレムは視線を落とし、シグナルバンドを確認する。光は二本。問題ない。魔法は使える。
――来る。
次の瞬間、木々の間から人影が現れた。一人、また一人と、無言のまま姿を見せる。暗色の装束。無駄のない動き。見間違えようがなかった。
「……神殿の追手か」
四人、五人――数が増える。完全に逃げ道を断たれている。
そして最後に、一人の男が前に出た。
「よう」
軽い口調だった。にやりと笑いながら、男はシュレムを見る。整った顔立ちだが、その目には一切の油断がない。その顔を見た瞬間、名前が浮かぶ。
「やっと見つけたぞ。苦労させやがって」
肩を回し、首を鳴らしながら男は言った。その仕草は昔と変わらない。
――だが、立ち位置は違う。
「逃げ回るなよ、シュレム」
一歩、距離を詰める。シュレムはゆっくりと構えを取った。
その男は――かつて同じ神殿に所属していた同僚、カイル・アンリだった。




