結界の内側の異常
夜の街は、静かなはずだった。
二人が宿を探して大通りを歩いていると、遠くから声が聞こえた。
最初は一人だったが、すぐに二人、三人と声が重なっていった。
「魔獣が出た!」 「なんで街の中に!?」
シュレムは思わず足を止めた。
街の中に魔獣が出る、それ自体はありえない話ではない。だが今いるのは、ちゃんと結界が張られているそれなりの街だ。
街に入る時に念のため確認したはずだ。支部神殿の管理に多少問題はあったが、結界そのものは機能していた。
住民たちが走り始めた。子供を抱えた女が悲鳴を上げながら路地へ逃げ込み、露天商が荷物を置いたまま逃げていく。大通りが、一瞬でざわめきに飲み込まれた。
「……行くぞ」
「うん」
逃げまどう人々をかき分けるように通りを走る。
路地に入ると、すぐにそいつを見つけた。四足の魔獣だった。昼間に森で遭遇したものと似ているが、体の変色の具合が違う。
より濃く、より広い範囲に広がっていて、路地の奥で住民を追い詰めていた。
「こんなのが、この街に入るはずがねぇ……」
シュレムは素早く周囲を見回した。
結界の光が壁沿いに走っており、破損した様子はどこにも見当たらない。
「……壊れてねぇ」
それなのに、魔獣は街の中に現れた。
「下がってろ」
「わかった」
シュレムの呼びかけに、サリエナはすぐに答えた。
「絶対動くなよ。邪魔になる」
サリエナは素直にその場に留まり、シュレムは前へ出た。
手首の精霊感知環に目を落とすと、光が二本、安定して灯っている。
「我が名はシュレム、火の精霊使い。ゼリニシア、接続を」
詠唱を始めた瞬間、奇妙な違和感を感じた。接続が開くまでに、ほんのわずかな間があった。気のせいかもしれないと思いながらも、頭の隅に引っかかりが残る。
シグナルバンドが光り始めるが、いつもより遅い。
「……コネクト」
接続は通ったが、ラグがある。シグナルは二本立っているのに、やはり応答がいつもより鈍い。ノードの問題かとも思ったが、違う気がした。
考えている場合ではなかった。魔獣は住民に対して、今にも襲いかかろうとしている。
「コマンド——炎の矢を生成。貫け。対象は魔獣」
炎の矢が走り、魔獣を貫いた。
魔獣は炎に包まれて路地の石畳に崩れ落ちた。住民が壁に背をついたまま、息を呑んでいる。
シュレムは残り火を踏み消しながら、倒れた魔獣に近づいた。
おかしかった。
魔獣の体表を見ると、変色の境界が不自然に途切れている。まるで精霊の気配が局所的に断絶したような、見たことのない痕跡だった。
昼間の森の魔獣とも違う。あれは単純に変色していたが、これは何かが抜けているような感じがした。
「……なんだこれ」
一歩近づいてしゃがみ込む。
「ノードのズレ……じゃねぇな」
先ほど見た街灯のちらつきはノードの管理不足だと思っていたが、これは違う。もっと深いところに原因がある気がした。
気がつくと横にサリエナが立っており、魔獣の残骸をじっと見ていた。
「……変」
サリエナはそれだけ言った。理由も説明もなく、ただそこに立って見ていた。
「何が変だ」
「……わからない。でも、こいつ変」
シュレムはサリエナを見てから、もう一度魔獣の残骸に目を向けた。
住民たちが恐る恐る戻ってきた。それと同時に神官たちが結界の確認を始めた。魔石を一つ一つ調べ、壁を伝って光を走らせていく。
しばらくして、神官がシュレムのそばに来た。
「結界に異常はありません。すべての魔石は正常で、結界の出力も規定値内です」
「……は?」
確かに、結界は正常に働いているし、結界が破られた形跡もない。それでも魔獣は街の中に現れた。
「……そうか」
シュレムはそれ以上は聞かなかった。神官に聞いても答えは出ないことはわかっている。
住民たちの安堵の声が広がっていく。みんな安心している、それでいい。
ただシュレムには、安心できる材料が何もなかった。
人混みから離れ、路地の壁に背をつけてシュレムは考えた。
街灯のちらつき、結界正常での魔獣侵入、接続の遅延、精霊反応の局所断絶。どれも、単体であれば説明がつく。でも異常が重なり始めている。
「……続いてるな」
少し間を置いてから、続けた。
「しかも……質が変わってる」
単なる劣化やノードの管理不足ではない。何かが、この世界のどこかに手を入れているような、そんな感覚だった。根拠はない。それでも、そう感じた気がした。
騒ぎが治まった頃、シュレムは宿への道を歩いていた。
サリエナが隣をトコトコとついてくる。
「……結局まだ飯を食えてないな」
「うん」
「お前、腹減ってるだろ。そういうのは先に言えよ」
「いま言う。すごくお腹すいた」
「まあ、そうだよな」
そのとき、ちょうど一軒の宿が目に入った。酒場もやっているらしく、中では住人や旅人たちがにぎやかに飲み食いしている。
「ちょうどいいな。あそこに泊まろう。飯も食うぞ」
「……うん!」
珍しく力強く頷くサリエナを見て、シュレムは小さく苦笑した。
二人の背中が宿の扉に消える。
その様子を、路地の奥からじっと見つめる男がいた。
「……見つけたぞ」
ようやく辿り着いた、と言わんばかりに男はつぶやいた。
「ここにいたか、シュレム」




