追い詰められた男
ナタリアが見つかった翌日から、神殿の空気はさらに変わった。自死と判断が下されるまでに、それほど時間はかからなかった。
失踪前夜に婚約者に不貞現場を目撃され、行き場を失った女が死を選んだ。状況は整っており、誰もがそう理解した。
結論はあまりにも滑らかで、最初からそこに用意されていたかのようだった。シュレムには何も言えなかった。反論する材料が、何もなかった。
問題は、その後だった。
数日が経つと、ラルフが神殿の上層部に申し出た。あの夜のことについて、話したいことがある、と。
シュレムは呼び出された部屋で、ラルフと向かい合った。ラルフの顔には、シュレムの拳の跡がまだ残っていた。腫れた頬と紫色の痣が、妙に現実感を伴ってそこにあった。
「ナタリア殿から、強引に誘われたんだ」
ラルフは静かな声で言った。俺は断った、何度も断った、でもナタリア殿は聞かなかった、あの夜も俺は拒んでいた、と。言葉は淀みなく並び、どこにも引っかかりがなかった。
シュレムは笑いそうになった。そんなはずがあるか、と思った。あのナタリアが、見知らぬ男を強引に誘ったなど信じられるか。
しかし笑えなかった。
ラルフの目に、嘘の色がなかった。言い訳をしている目ではなかった。むしろ、自分が被害者であると信じて疑っていない目だった。
そしてラルフだけではなかった。
一人、また一人と、証言が集まった。ナタリアから声をかけられたという男が、神殿内外から次々と現れた。断ったという者もいた。応じたという者もいた。
記憶の細部に差はあったが、語られる構図は奇妙なほど一致していた。シュレムの知らない話ばかりだった。ナタリアの知らない一面ばかりだった。
上層部はいくつかの証言にヴェリタスの瞳を使用した。魔道具の判定は明確だった。どの証言にも、嘘はなかった。疑う余地すら与えないほどに、結果は揃っていた。
シュレムは自室に戻るたびに、壁を見つめた。
信じたかった。信じたい気持ちは、まだあった。しかし状況がそれを許さなかった。証言は積み上がり、記録は整合し、ヴェリタスの瞳は嘘なしと言い続けた。
逃げ場はなかった。シュレムの「おかしい」という感覚だけが、何にも裏付けられないまま宙に浮いていた。根拠のない違和感だけが、確かなものとして残り続けていた。
なぜ、ナタリアは何も言わずに死んだのか。
それだけが、どうしても理解できなかった。
拒絶するなら話せばよかった。疑っているなら問いただせばよかった。何かを抱えていたなら、言えばよかったのに。三年間、隣にいたのに、なぜ一言も言わずに、あの歪んだ笑顔を残して消えたのか。
なぜ、あんな顔をしていたのか。
答えを出せないまま、シュレムの頭の中にある記憶が浮かんだ。
神殿の禁書庫。研修で立ち入った際に、一度だけ目にしたある禁術の存在を思い出した。
死者との交霊を可能にするという禁術の記録。
紙面の文字は複雑で、しかし妙に頭に残る配置をしていた。見てはいけないものを見たような感覚だけが、やけに鮮明に残っていた。
禁書庫への無断侵入も、禁術の使用も、神殿内では重罪に相当する。発覚すれば追放では済まない。それはわかっていた。
それでも、シュレムは立ち上がっていた。真実を知る手段が、それしか思いつかなかった。
夜が深くなるのを待って、シュレムは禁書庫へ向かった。記録にある通りに魔法陣を描いた。線はわずかにでも狂えば意味を持たない。震える指先で、それでも正確に描き切った。
中心に置いたのは、ナタリアの髪だった。火葬される前に、形見として切り取られたものだ。
細く束ねられたそれは、あまりにも軽く、あまりにも現実味がなかった。三年間、確かにそこにいたはずの人間の一部が、こんなにも簡単に"物"になっていることに、理解が追いつかなかった。
かすかに、髪には見覚えのある香りが残っていた。何気ない日常の中で、ふと近くにいたときにだけ感じていた、あの匂いだった。
思い出そうとすればいくらでも思い出せるはずなのに、形にしようとした瞬間、指の間からこぼれていくような曖昧さだった。
シュレムはほんの一瞬ためらった。これが正しい行為ではないことは、わかっていた。それでも、ここまで来て手を止めるわけにはいかなかった。
術を発動した。
暗い紫色の光が集まり、それがゆっくりとナタリアの姿を形づくり始めた。空気が重く沈み、呼吸が短く、早くなる。
輪郭が現れ、顔が現れ、かつて知っていたはずの面影がそこに浮かび上がる。シュレムにとってその姿はひどく懐かしく思えるものだった。
「ナタリア、真実を話してくれ」
次の瞬間だった。
ナタリアの姿は醜く歪んだかと思うと、鋭い形にねじれ、そのままシュレムの胸へ向かって伸びた。反応する暇はなく、それはシュレムの胸を貫いた。
外傷はなかった。痛みもなかった。しかし内なるどこかに、確かに暗い何かが刻み込まれた感覚があった。冷たいものが、心臓の奥に沈んでいくような感覚だった。
ナタリアの姿は、消えた。
シュレムは膝をついた。身体が動かなかった。視界が揺れて、音が遠ざかる。
頭の中でナタリアの声が響いた。言葉にならない声で、意味のある言葉ではなかった。ただ、声だけがそこにあった。断片的で、しかし確かにナタリアのものだった。
俺は失敗したのか、とシュレムは思った。
「何をしてるんだ!」
声がして振り返ると、入り口に同僚のカイルが立っていた。




