見たくなかったもの
ナタリア・コレットと初めて会ったのは、シュレムが神殿に入って四年目の春だった。
シュレムが所属する支部神殿の新しい職員として紹介された。
初めての会話は向こうからだった。陽気で明るく、よく笑う人で、気づいたら、会うたびに話すようになっていた。
気遣いができて、こちらの話をちゃんと聞いてくれる人だった。シュレムが饒舌になりすぎても、呆れた顔ひとつしないで聞いてくれた。
出会ってから三年が経っていた。
結婚が決まったとき、ナタリアは泣いた。泣きながら、一番の笑顔を見せた。
その表情にシュレムは何も言えなくて、ただその手を握っていた。
それは、結婚式を三ヶ月後に控えたある日のことだった。
その頃、神殿の仕事が立て込んでいた。大規模な精霊接続の調整作業が複数重なり、シュレムは連日深夜まで神殿に詰めていた。
帰宅しても仮眠を取るだけで翌朝にはまた出向くような日々。ナタリアとは、もう二週間以上まともに顔を合わせておらず、短い文のやり取りだけが続いていた。
「忙しい、すまない、もう少し待ってくれ」
ナタリアはいつも、「わかった」、と一言だけ返してきた。
責めるでもなく、寂しがるでもなく、ただわかった、と。それがかえって胸に引っかかることもあったが、今は考える余裕もなかった。
その夜、ようやく自室に戻ったシュレムは、外套も脱がないまま寝台に倒れ込んだ。
身体の奥まで疲れが染みていて、目を閉じると意識がすぐに遠のいていくのがわかった。今夜こそちゃんと眠れる、そう思った瞬間だった。
「大聖堂に行ってみて」
どこからともなく、声が聞こえた。聞いたこともない女の声で、誰の声かはわからなかった。
夢の入り口で拾った幻かとも思ったが、やけに鮮明で、耳の奥に張り付いて離れなかった。
なんとなく胸騒ぎがした。シュレムは目を開けて天井を見つめた。
馬鹿らしい、と思った。疲れているだけだ、と思った。
それでも足が動いた。
夜の神殿区画は静かで、石畳を踏む自分の足音だけが響いた。
歩きながら、シュレムは何をしているのかわからなかった。理由があって動いているわけではなかった。ただ胸の奥の騒ぎが収まらなくて、確かめなければ眠れない気がした。
大聖堂が近づくにつれて、その胸騒ぎは静まるどころか大きくなっていった。
重い扉に手をかけると、隙間から明かりが漏れていた。
扉を開けた。
シュレムは最初、何を見ているのかわからなかった。
燭台の揺れる光の中に、人影が二つあった。一つはシュレムの知っている同僚、ラルフ・エインズ。そして、もう一つは、ナタリアだった。
二人は、生まれたままの姿で絡み合っていた。
「おまえら、何してるんだ」
自分の声とは思えなかった。
ナタリアがこちらを振り向き、そして目が合った。
ナタリアは笑っていた。
しかし、それはシュレムの知らない笑い方だった。
唇の端が歪んで、目だけが笑っていない、見たことのない表情だった。三年間、毎日顔を見てきた相手の、一度も見せたことのない表情だった。
ナタリアは何も言わないまま身を翻して、礼拝堂の奥の扉から走り去った。
「シュレム、これは違うんだ、ナタリアが——」
ラルフが何か言いかけたが、シュレムの拳が、それより先に動いていた。
鈍い音がして、ラルフが床に崩れた。何を言われても聞く気になれなかった。
ナタリアを追って、シュレムは走った。廊下を走り、階段を駆け下り、神殿の外に出て夜の街を走った。
精霊感知を展開しながら名前を呼び続けたが、どこにも気配がなかった。ナタリアの足取りは、大聖堂を出た場所で完全に消えていた。
翌日から、神殿の空気が変わった。シュレムが廊下を歩くと、同僚たちの視線が微妙にずれた。話しかけてくる者はいなかった。
殴られたラルフは療養中で、事情を知っている者は限られているはずだった。それでも何かが伝わっていた。
捜索の指示を受けて動く神官たちの中で、シュレムだけが別の空気に包まれているような気がした。
それでも探し続けた。翌日も、その翌日も。非番の時間をすべて使って街を歩き回った。しかしナタリアはどこにもいなかった。
何日かが過ぎた。
シュレムは自室で暗い天井を見つめながら、どうして、という言葉だけを頭の中で転がし続けていた。
信じたかった。しかし見てしまった。あれが現実だとしたら、あのナタリアの笑顔は何だったのか。一度も見たことのなかったあの歪んだ笑顔は。
整理しようとするたびに思考が止まって、また同じ場所に戻ってきた。答えを出せないまま、時間だけが過ぎていった。
ふいに扉を叩く音がした。
「グランベル殿、ナタリア・コレット殿が——」
伝令の声が言い終わる前に、シュレムは走り出していた。
場所は神殿区画の外れだった。人垣をかき分けて進んで、シュレムは立ち止まった。
ナタリアがいた。
変わり果てた姿で。
首には、縄の跡があった。
膝から力が抜けた。その場にしゃがみ込んで、周囲の声が遠くなった。
誰かが何かを言っていたが、何も聞こえなかった。
ただ一つだけが、頭の中に残り続けていた。
おかしい。何かが、おかしい。




